社会変動と機能-ドライな機能主義の視点から-


ドライな機能主義においては、社会変動とは、人々がよりよい環境適応水準の向上を目指して、現在存在する、そのままでは不十分な環境適応水準しか提供しない、社会の仕組みを打破して、より新たな満足できる水準の環境適応状態を得られる社会の仕組みを作ろうとするために起きる、社会の動的変化を表す。


●社会的均衡

社会的均衡は、集団や全体社会を構成する諸要素が、静止または安定状態にあることを指す。それは、機能同士の交換関係の一定化・安定化(分業関係の一時的安定)、各人の機能の出し入れが一定化すること、構造の生成、といった形で現れる。

社会的均衡は、生物学における、ホメオスタシスの考え方に基づく。ホメオスタシスとは、生物の生理的条件、例えば人間の体温や血液の状態が、身体を取り巻く条件の変化がたとえ起きたとしても、一定の標準状態を保つことを指している。これを、ドライな機能主義の考え方に応用すると、社会的なホメオスタシス(社会的均衡)は、人々の環境適応水準が、許容範囲以上に収まった状態が続くことを指す。

人々は、自分自身のの環境適応状態を、一応満足できる、快適な状態で留め置く、ないし、安定させようとする。環境適応水準が、そこから落ちた場合は、元のよりよい、人々が許容する範囲内の適応水準に戻そうとする。これが、社会的均衡のメカニズムと考えられる。



●均衡内変動と均衡外変動

生体のホメオスタシスにおいては、例えば、体温を一定に調整しようとする働きのように、一定の範囲内の変動を繰り返しながら、元のより環境適応的な状態に戻ろうとする。社会においても、法律が社会の中で連続して運用されながら、改訂を繰り返す経過のように、一定の変動許容範囲内で、変動を繰り返す動きが見られる。これは、社会的均衡が、それ自身の中に、(一定範囲内の)社会変動を内包していることを示すものである。社会変動と、社会的均衡とは、互いに相いれない概念では、決してない。

足を支えるだけで、釣り合いが取れる玩具である、「やじろべえ」(釣り合い人形、balancing toy)においては、その体や腕を揺すったときの上下左右方向への振れ(変動)が、一定以内なら、元の均衡状態に戻るが、変動が一定以上だと、ひっくり返ってしまう(均衡が崩れる)。

この玩具の原理を、社会的均衡および社会変動に当てはめて考えると、以下のようになる。一定以内の幅で、行ったり来たりの変動を繰り返すとき、これは、長い目で見れば、均衡状態を中心とした、均衡状態に戻ることが可能な社会変動であり、「均衡内変動」とでも呼べる。一方、変動が一定以上で、以前の均衡状態に戻ることが不可能な、言い換えれば、均衡が崩れる、根本的な大変動が存在し、これは、「均衡外変動」とでも呼ぶことができる。


●社会変動の諸類型とその発生原因

人々は、その環境適応の度合いが、低過ぎて、とても満足できない状態にあるとき、この状態を打破して、少しでも、高い、生き延びやすい、環境適応の度合いを得ようとする。この状態では、人々は、低水準の生活しかもたらさない均衡状態を積極的に破って、より高い水準の生活を手に入れようとして、その過程で、社会変動が起こる。

ただし、現在の均衡状態が打破されるのは、人々の環境適応水準が低い場合のみとは、必ずしも言えない。絶えず、今よりも環境適応水準をより向上させて、より快適な生活がしたいという欲求は、多くの人々が持っているものであり、そうした、環境適応水準向上へのあくなく欲求・圧力(環境適応水準向上圧力=EALIP)が、現在の、一通り快適なはずの、均衡状態を破棄して、よりよい水準の生活を目指そうとする人々の動き(社会変動)の原動力となる。環境適応水準の向上(より生き延びやすい生活水準の実現)こそが、生態学的には望ましいとされる状態であり、その実現のためには、社会的均衡は、それがある程度、快適な生活を約束するものであっても、よりよい環境適応にとって不足と感じられれば、破棄されて構わない。

例えば、企業間の機能開発競争(例えば、携帯電話の機能向上競争)が激しく、環境適応水準向上への動機が限りない場合、現在がたとえ環境適応状態にあっても、引き続き、今までにない高いレベルの環境適応水準(例えば、携帯電話の高速データ通信対応など)を求めて、社会変動が続き、社会的均衡状態は訪れない。この場合、高い水準に一度上がると、従来、十分環境適応的と考えられてきた仕組みが、不便でたまらない、と感じたりする。このとき、環境適応の度合い(水準)自体を評価する水準の底上げが起きている、といえる。

要するに、社会変動には、もともとの環境適応水準が低過ぎるために起きる「水準不足型」と、十分な環境適応水準が存在するにもかかわらず起きる「水準十分型」との2通りがあることが分かる。

ここまで述べて来た、各種の変動は、変動の原因に関する視点を、一つの社会の中に限定させて捉えたものであり、「単独型」変動と呼べる。

これらとは別に、他の社会の人々と、生活水準のような環境適応の度合いを示す値に、格差がある(他の社会の人々の方が、ずっと高い環境適応水準で生活できている)ことに気づいたときは、自分たちもよりよい環境適応水準(水準の向上)を求めて、現状の均衡ないし停滞状態を抜け出そう(壊そう)とする。こうした(自分の属する社会と、周囲の他の社会との)社会的比較が、社会変動に結びつく。

このタイプの変動は、他の社会との比較が原因でおきるので、「比較型」変動と呼べる。

いずれの社会変動も、人々が、自分たちの環境適応水準を向上させようとして起こる点では共通しており、環境適応水準向上圧力(EALIP)が、根底において働いている、とみなすことができる。

しかし、動機として、上方向を目指していても、結果としては、必ずしも、環境適応水準を上げる方向に変動するとは限らず、逆に、環境適応水準を、今までよりも低下させる方向に変動することもある。

例えば、ある国が、領土拡張の戦争に負けた場合、かえって、相手国に、自国の領土を奪われて、生活範囲を狭められ、結果として、環境適応水準が、低下する。この場合、動機としては、自国の領土を拡張して、生活範囲を拡げる形で、環境適応水準を向上させようとしていたのであり、結果は、動機(=上昇)と相反するもの(=低下)となっている。

あるいは、独裁政権の圧政に苦しむ人々が、圧政からの解放を求めて、革命を起こしたところ、革命勢力が、利害の対立から、分裂して、互いに内戦状態に突入し、戦争による混乱から、かえって、生活が苦しくなる、ということが起こる。この場合も、圧政からの解放という形での環境適応水準向上を求めた動機とは逆に、内戦が原因となった社会混乱による環境適応水準の低下という結果を招いている。

したがって、社会変動は、環境適応水準を上昇させようとする圧力に基づくものとして捉えられるものの、変動結果としては、環境適応水準の上昇をもたらす、「水準上昇型」と、逆に、環境適応水準の低下をもたらす、「水準低下型」とに、分かれる、ともいえる。

社会変動は、さらに、景気変動のように、環境適応水準の上昇・低下の波が、交互にやってくる「循環的」なものと、社会の近代化・(逆に)地球温暖化に見られるように、環境適応水準が、一方的に上昇・低下していくような、「一方向的」なものとに分かれる。



●保守指向と革新指向

現実の社会においては、快適な現状を維持しようとする「保守指向」と、そこそこ快適ではあるが停滞した現状を打破して、新たな変化(環境適応水準の一層の上昇)を求めようとする「革新指向」との、絶え間ない攻防が存在すると見られる。

人々は、その環境適応の度合いが、満足できる水準にあれば、その状態が安定して続くことを望む、と考えられる(均衡状態の維持を指向する)。環境適応の水準が、一応、人々の許容範囲内にあれば、多少の不満はあっても、その状態が続くことに、あからさまに反対はしないで、現状を追認する。社会において均衡を維持しようとするのは、自分の今いる社会の現状に、ある程度満足している、一人一人の人間である。これが、「保守指向」の源である。

一方、人間には、ある均衡状態が長く続くと、たとえそれがある程度快適であっても、その状態に心理的な飽きが来て、変化を求める傾向がある。あるいは、人間に内蔵された飽くなき向上心(これは、環境適応水準向上圧力=EALIPに基づくもの)が、たえず均衡した現状を打破して、より上のレベルの生活を目指させる。こうした、心理的飽和や環境適応水準向上圧力=EALIPが、「革新指向」の源となる。

人間社会においては、大別して、既に環境適応状態にある人と、そうでない人とがいる。
保守的な人々は、既に環境適応している現状をそのまま維持したい人々であり、一方、革新的な人々は、現状では、環境適応水準が低過ぎるなど満足いく水準に達していなくて、不満な人々である。

企業において、経営者側が保守政党を支持し、労働者側が革新政党を支持するのも、両者の間に、環境適応水準面(生き長らえるのに必要な機能を手に入れることの容易さ)での格差があるためと考えられる(経営者側の方が恵まれている)。

保守的な人々は、社会変動によって、革新的な他者の環境水準が上がると、自分の環境適応水準が相対的に落ちるため、それを嫌って防ごうとする。それが、復古、反革命運動につながる。

社会・組織の存続(保守)が求められるのは、人々が、
1.すでに慣れた、ある程度快適な状態の維持を望む。
2.既存の社会・組織から放り出されることによって起こる、自分を取り巻く環境の新たな変化に適応できるか、不安である。
場合である。
 



●従来の社会システム論との相違点

T.Parsonsの社会システム論では、社会システムにおいては、社会統制と社会化が、現状維持を生み出すメカニズムであるとする。社会統制は、現状の社会の状態が守られるように、守らない者に対して制裁を加えるなどすることと捉えられ、社会化は、現在の社会の状態を、幼い~若い次世代に、教育によって、そのまま受け継がせることと捉えられる。いずれも、強制力によって、現在の状態を持続させようとするものであり、人間の持つ、自主性、自発性は、無視されている。

ドライな機能主義では、これとは異なり、社会を構成する人々が、満足する環境適応水準を、その社会の中で生きている際に、得ていることが、その社会の仕組みの現状維持を生み出す(人々は、誰かに強制されることなく、自発的に、現状維持を選ぶ)と考える。

次に、従来の社会システム論が、社会変動を説明できないとされる理由は、
(1)T.Parsonsの社会システムモデルは、システムの統合・安定を重視した「均衡モデル」であるため、変動は、異常なもの、病理的なものとして扱われる。
(2)T.Parsonsによれば、社会変動とは、社会システムそのものの変動とは区別される、システム内部の変動であるとされ、均衡から再均衡に至る一定方向の過程として想定されており、その均衡のかく乱要因、すなわち、変動の要因は、逸脱行動として考えられる。変動要因である逸脱行動もたえず社会統制のメカニズムが働くことによって、やがては解消され、ふたたび均衡に向かう、と説明される。こうした変動論では、変動の予測や変動の源泉、さらには、社会そのものの変動の説明は不可能とされる。
といったものである。
 

ドライな機能主義においては、環境適応が第一で、その過程で、社会均衡(釣り合い)とその破棄との両方が起こるという順序で捉える。
従来の社会システム論のように、均衡維持は必ずしも優先されない。銀行のオンラインシステム更新やオフィスのパソコンの新機種交換のように、均衡が保たれている(システムをわざわざ新たにいじらなくても、一通りの環境適応に十分な水準に達している)にもかかわらず、よりよい環境適応水準(競争力の向上など)を目指すために、積極的に、その均衡を廃することが行われる。

ドライな機能主義の見方では、従来のT.Parsonsらの社会学的機能主義とは異なり、均衡維持が、社会の最終目的ではない。社会に属する個々人が環境に適応し、生き延びることが、最終目的である。個々人のよりよい環境適応を助けない均衡状態は、廃する必要がある。


●[社会変動の分析例]日本の明治維新

日本の歴史における、「明治維新」は、薩長土肥の雄藩が、従来の200年以上にわたって続いてきた江戸幕府体制を倒し、明治新政府による中央集権体制を新たに樹立した、という点で、従来の社会体制を根本から覆した、均衡外変動であると言える。

明治維新の原因は、
 
(1) 環境適応水準低下の抑制 そのまま日本社会を放置しておくと、欧米列強の属国・植民地化して、搾取の対象となり、低い生活レベル=環境適応水準しか得られなくなる。そこで、一刻も早く手を打って、植民地化を回避する必要がある。
(2) 環境適応水準向上の効率化 欧米列強の文化・行動様式は、今までの日本文化に比べてより進歩しており、受け入れれば、より高い環境適応水準(生活レベル)をもたらす。そこで、一刻も早く、より欧米文化を効率よく受け入れる体制を作る(「文明開化」を実現させる)必要がある。

といったように、当時の日本社会変革を担った指導者たちの心の中に内在する、環境適応水準向上圧力(EALIP)がもらたしたものと見ることができる。
 



●全体的均衡と局所的均衡

社会の均衡については、社会全体が均衡する(部分が全体に従属)のではなく、局所的均衡の連鎖(各部分、例えば地域~通信コミュニティが自律的に均衡する)として捉える見方が可能である。

各個人は、社会システム全体のために機能するのではない(結果的に全体社会に寄与するにしても、個人はそこまで目を配ろうとしない・配る能力がない=各々の情報処理能力、体力etc..の限界による)。個人は自分が関わることができる(担当できる)範囲内をカバーするのみであって、各個人は自分が利用できる範囲で互いに局所的なシステムを利用する。そこで働いているのは、「局所的機能」とでも呼ぶべきものである。

例えば、日本の中央官庁においては、その行政が縦割り的であり、組織内部では、「局あって省なし」とされるが、これは、組織内の各自が見える範囲が限られているために起きる現象だと考えられる。そういう意味で、局所的均衡は、ピラミッド型組織(官僚制)にも当てはまる概念だと言える。

要するに、人間にとって、一度に社会全体を見渡すのは不可能であり、その都度局所的な判断の積み重ねのほうがうまくいく、ということになる。



●社会の近代化(改革、自己組織化)

社会の近代化は、よりよい環境適応を行う、すなわち、環境変動に対して、対応する機能の提供がより高い水準に安定している生活を送れるようにするために、社会を構成する人間同士が力を出し合って、今までにないレベルの機能を作り出していく過程を指す。

改革は、社会を構成する各人の環境適応度を上げるために、規範・コミュニケーション・ネットワークなどの様々な既存の社会関係を変更し(革命と異なり、全面的に破壊するのではない)、新しいレベルへの再構成を試みる(均衡の範囲内で変動を起こす、均衡内変動を起こす)ものとして捉えられる。同様に革命は、人々が機能不全を起こした(構成員にとって必要な機能が手に入らない)社会を一からやり直し(均衡を完全に破壊する均衡外変動を起こす)、新たな機能充足状態を作りだそうとする試みとして捉えられる。

自己組織化とは、個人の視点から見ると、一人一人が環境適応のレベルを上げるため自発的に、各自の機能を新しく発明・改良したり、機能交換をよりスムーズすることにより、機能生産・交換のレベルを上げること、と言える。



●発明・発見と社会変動

新機能の発見、発明は、偶然性を伴う(人為的には統制できない)。遺伝子の突然変異に相当する。
全てを人為的に統制しようとした社会主義計画経済の破綻と関連がある。
新機能の発見、発明は、環境適応性向上の原動力となる。あるいは、均衡済社会の均衡を廃する。
 



●社会的均衡の、その他の定義

社会的均衡の定義は、ホメオスタシス以外の見地からは、

1.分業している社会の成員同士が(その働きに応じて)満足できる環境適応状態にあること  さまざまな機能が十分(最も)有効に働き、各人の生存が十分(最も)保証されている状態
2.分業している各成員が提供する機能が社会ネットワークのすみずみの成員まで行き渡るようになった状態
3.社会的分業の部分部分を構成する機能同士のバランスが取れている状態 日本 工業国 工>農 国内的にはアンバランス 国際的にはバランス関係の中にあるか
4.機能の入出力に釣り合いができている(一方が他方に一方的に利益を持っていかれることがない)状態

といったように捉えられる。


(c)1998-2005 大塚いわお


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