■機能主義的生き方、人生観


人は生き物である。変転する厳しい環境の中、何とか生き残って、増殖する必要がある。
変化する環境の中で生き残るには、生き残るのに役立つ働き、効果=機能を、その都度入手する必要がある。

生物の本質である、生き延びたいという、生への衝動と、機能=生命維持、繁殖に役立つ働きとは、密接に結びついている。

人は一人では生きられない。
一人だけで、環境適応に必要な全ての働き=機能は賄えない。
一人だけで、衣食住に必要な働き=機能を十分に自前で用意することは難しい。これは、絶海の孤島に一人取り残された人がこれからどう暮らしていけばよいか途方に暮れることを考えれば、容易に想像できるだろう。

環境適応に必要な他の働き=機能を持つ人との共同、協力がどうしても必要である。
他の人から、機能を融通してもらう必要がある。

個人の、完全な自主独立、外部社会からの引きこもりは不可能である。人間は、相互依存、互助の生き物である。

環境適応に有効な機能を互いに他人に提供し合って生きるのが、機能主義的な生き方の基本である。


本来、他人の役に立たないと、他人から、自分が必要としている機能を、返礼として貰うことはできない。人は、互助的な生き物であり、一方的な持ち出しは、不平等な搾取であり、許されない。

人が生きていくには、他の人の役に立つ働きをすること、他の人にとって環境適応に有効な働きを提供することが不可欠である。これが、労働である。

他人の役に立つこと、人助けをすることが、人が生きていくための条件である。

他人の役に立たないと、返礼の物資、お金が貰えず、生活できないというのが、人間社会の原則である。他人の役に十分立っているのに、貧しくて生活できない人がいるというのはおかしいし、他人の役に全然立っていないのに、ぜいたくな暮らしができる人がいるというのも、社会のあり方が間違っている。

他人の役に立つことで、他人から存在を認められ、他人から返しの援助を受けやすくなる。その結果、生き延びやすくなる。
人間は、誰でも、他人の役に立つと、あるいは、他人から「ありがとう」と言われると、いいことをしたと感じて、気持ちがよくなる。これは、人類に共通した心理であり、人間の神経系の根幹を占めている。人間には、いつしか他人の役に立つことを快感と見なす神経回路が遺伝的に備わるようになったのではないだろうか。こうした感覚は、人間が生き延びていく上で、遺伝的、本能的な根拠を持つと考えられる。

他人のためになることをすることで、他人の返しの援助を得やすくし、そうすることで自分自身を生き延びやすくするのが、変転する環境の中でうまく立ち回ることの出来る、賢い人間の生き方である。

必要な時に必要な機能を手に入れることができるのが、人間が生きていくための条件である。常日頃、他人に必要な機能を、他人が必要とするタイミングで提供できることが、他人から、返しの機能を確実に手に入れやすくする極意である。


人間が、自分のところに物資に恵まれ、豊かになる条件としては、自分と他人に役立つ機能を提供することが第一である。自分と他人に役立つ機能を質量面で多く提供するほど、より人の役に立って、返礼としての物資をより多く貰い、生き延びやすくなるのが本来の姿である。

株式や原油、貴金属とかへの投機で金儲けをして豊かになるというのは、極力避けるべき生き方である。なぜなら、それらの行為自体、何ら、人々にとって役に立つ、有益な機能を生み出さないからである。人々の役に立つ、製品やサービス提供に結びつく仕事をすべきである。


人間は、環境適応に有効な機能を、互いに、他人に提供し合って生きるのが望ましい。要は、個人単位間での、機能の輸出、輸入を行うのである。

他者に、自分の生成した、有効な機能をできるだけよく提供、輸出することが、より自分のコピー、アウトプットを増殖、繁殖させることにつながり、結局は自分のためになる。

その際、輸出入で出超になるのは、人に貰うより、与える方が多く、生存力に余裕があり、自立できている証拠であり、よいことである。一方、入超になるのは、他人のお荷物になっている証拠であり、その状態から早く抜け出す必要がある。そのために、日夜、自分が他人に対して提供できる有効な機能は何かを絶えず考え、生み出して行く必要がある。

本来、各人にとって、機能の出入りは、資金の出入りと同じで、最低限収支とんとんか、望ましくは、出超、黒字になる必要がある。なぜなら、不意の事故とかで、機能を生み出せない体になってしまい、入超状態になる可能性があり、そうなったときに、手持ちの既存の黒字分、預金の消化で食いつなぐ必要があるからである。出超、黒字にするには、絶えず、他人が必要とする機能を提供し続ける必要がある。

他人に有効な機能を出さずに、貰ってばかりだと、機能輸出入の収支は赤字になってしまう。人は、こうした一方的な機能の提供を好まない互助的な生き物なので、機能収支の赤字の持続は、結局その人が生きて行けなくなることにつながる。


他人に有効な機能を提供せずに、ただ他人から機能を受け取る、奪うだけの生活をする人は、略奪者であり、人々の機能提供の相互助け合い、融通を崩し、生きにくい社会を作り出す。これは、極力排除しなければいけない。

他人の役に何ら立っていないのに、リッチな生活をするのは、泥棒、寄生虫と同じであり、病的である。一方、他人の役にたくさん立っているのに、生活が苦しい人の存在も問題である。こうした状態の人が発生しないように、他人の役にたくさん立っている人がリッチな生活をし、役に立たない人はとりあえず最低限の生活ができるように、社会をコントロールすべきである。

人の役に立たないと、生活できない、お金は貰えないというのが、一大原則である。人が生存していくのに有効な機能を提供できないと、提供した機能に対する返礼の物資が貰えず、蓄積できず、生きていけない社会というのが、本来あるべき社会の姿であり、そういう社会の姿に保つべきである。「働かざる者、食うべからず」の精神が必要である。



他人と機能のやりとりをする際、相手側が、自分の欲する機能をそのまま持っていることはまれである。
他人と機能のやりとり、交換を円滑にするには、互いの交換する機能の価値を、共通の尺度で数値化した貨幣、お金が必要である。

確かに、お金があればあるほど、必要な機能を手に入れやすくなり、より生存しやすくなるのは事実である。

しかし、お金さえ儲かればよい、お金が全てという考えは誤りである。大切なのはお金それ自体ではなく、お金と交換で手に入れる機能の方である。お金をいくら持っていても、いざと言う時に、必要な機能(衣食住に必要な働き)と交換してもらえないと何にもならない。

人が機能不足で困っている時に、機能を融通してくれるのは、常日頃、自分が親切に、協力、相互援助していた相手(友人)であることが多い。そういう点で、友人の存在は不時の機能の獲得に不可欠である。持つべきものはお金ではなく、友達である。

一般に、ビジネスは、相手に機能を提供し、その分の対価をきっちり貰って利益を得る、儲けるものとみなされる。

しかし、その際、他人から対価をなるべく多く巻き上げて、金持ちになることが自己目的化してしまう人が多い。要は、他人に対して提供する機能そのものに目が行かず、機能提供の対価として支払われるお金に目が行ってしまうため、目先の利益確定に目が囚われて、自分が提供する機能の品質確保、向上がおろそかになるのである。儲かるなら、低品質の機能で構わないとする見方が広まることになってしまう。

これだと、人々の間に行き交う機能の品質が低下してしまい、人々の環境適応の水準が低くなり、人々はより生き延びにくくなる。これは、まずいことである。

そこで必要なのは、見方、スタンスを変えることである。

要は、人の役に立つ、人々の環境適応水準を向上させるのに資する、よりよい機能を周囲に向けて生み出していこうとする心構えを、まず根底で持つことである。

その心構えが、日常の仕事の中で、人々がより生き延びやすくなるのに役立つ、新たなアイデアを生み出す原動力になる。それは、新たなビジネスチャンスに直結し、ビジネスを推進することで、周囲の人々の生活水準を向上させつつ、自分自身も、周囲の人々から対価を貰って、金持ちになり、豊かになることができるのである。

金儲けには、こちらの考え方の方が重要である。単なる金の亡者のように、周囲の人々から一方的に金を巻き上げるのではなく、他人の役に立った上で儲けているので、他人からは「ありがとう。助かった。」と称賛を受け、周囲~社会に受け入れられつつ金持ちになれる。また、周囲の人々の頭に、自分をプラスの価値あるものとして売り込むことができ、自分の文化的子孫を周囲の人々の頭の間に残すことにもつながる。


他人の役に立つことは、自分の分身を他人の間に広めやすくなる効果も持つ。

人間は生き物であるから、絶えず、自己増殖を図ろうとする。
自分のアウトプット、分身を、生きた証として、できるだけ長く残そう、広範囲に広めようとする。これが実現したら、人生は成功である。一方、自分のアウトプットが途絶え、広まらずに消滅したら、人生は失敗である。

要は、成功した人生は、自分とその分身の、外部世界への拡大・増殖をうまく果たした人生であり、失敗した人生は、自分とその分身の拡大・増殖に失敗した人生である。

ただし、この人生の成功と失敗は、長い目で見ないと分からない。場合によっては本人が死んだ後で、その功績が発掘されて、有名になって世界中に広まることもある。逆に、本人が生きている間は成功者として恵まれた人生を送るものの、死後、急速に忘れられて、消えてしまったり、批判の対象になって汚名を残すこともあるからである。

各人が生成する機能も、その人にとっては、自分自身の分身、コピー、生きた証である。
各人が生成する機能を、自分の分身、生きた証として残すには、
(1)質を最上級にする(質をできるだけ高める)
(2)量を最大化する(できるだけ広範囲に広める)
必要がある。こうした意図から良質の機能がたくさん社会に出回ることが、人々を社会の中で生きやすくすることにつながる。

こうした、自分の生成した機能をできるだけ長生きさせよう、広めようとする欲求は、生物として自己増殖しようとする、極めて利己的な自分勝手なものである。しかし、結果的にその利己性が、社会に流通する機能の質量の向上をもたらし、ひいては社会の発展に貢献すると考えられる。

他人の役に立つこと、他人に対して有益な機能を提供し続けることが、自分のアウトプット、コピーを他人のもとに広める自己増殖につながり、ひいては、生き物としての成功につながる。他人の役に立つことは、結局は、自分のためになる。


他人に必要とされること、他人にとって必要な機能を提供できることが、人間にとっての生きがいである。

他人に対して、必要な機能を提供できることで、対価が得られ、その対価で自分が生き延びていく上で必要な物資を手に入れることができ、より生き延びやすくなる。また、他人、周囲へと自分の分身である自作の製品のコピーを広める機会が増えることになり、自己増殖につながる。

他人に、必要な機能を提供できないこと、他人から不要、お荷物と見なされることが、生きていく価値なし、存在価値なし、人生の失敗ということになる。

人間が、仕事で給与稼ぎに一生懸命になるのも、単に、自分の生活を豊かにしたいというだけではなく、その過程で、いかに他人に必要とされる価値ある人間となるか、いかに他人に必要な機能をてきぱき提供できる有能な人間とみなされ、周囲から高い価値を与えられるかに、人生の成功がかかっているからである。有能さが後世まで語り継がれれば、歴史上の人物として、自分の存在を死後もずっと人々の間に広めることが出来、(文化的な)自己増殖に成功したことになる。

高い機能提供能力を持っている有能者と見なされることは、「あの人には(生きて)いて貰わないと困る」「あの人の存在は必要だ」「あの人がいると助かる」「あの人をバックアップ、サポートして、持てる能力を十分発揮してもらおう」という周囲の評価につながり、自分が生きていく上での必要な援助、サポートを周囲からより得やすくなることにつながる。要は、より生き延びやすくなるのである。

それはまた、よりよい機能提供のためにはどうすればよいか、人より物事がよく見えることにつながり、社会や組織で高い指導的な地位を約束されることになり、周囲の人たちを自分の言うことを聞く分身、部下として使うことが可能になる。その点、周囲に自分の教えが広まりやすくなり、自己増殖に成功したことになる。

人が周囲から褒められると喜ぶのは、本質的には、「他人に必要とされた、他人の役に立った」有能感を持てるからである。そして、その有能さが、自分自身を生き延びやすくすることにつながるからである。

「他人に必要とされる(プラスの)価値ある人間になりなさい」「他人に必要な機能を提供できる有能な人間になりなさい」というのが、(機能主義者の)人生訓ということになる。




人は、死後天国に行くために善行をしようとする。しかし、本来、善行は、そうではなく、社会を自分や他人にとって生きやすくするために行うものである。社会が生きやすくなることで、生物としての自己保存、自己増殖を図りやすくするのが、善行の効果である。善行は、天国の存在など仮定しなくても、生き物としての人間にとっては、行うべき根拠が十分あると言える。

善行や隣人愛は、その動機が、自己保存や自己増殖を有利にしようとする自己中心的なものであって全然構わない。善行は、自分の利益のために行うものである。「情けは人のためならず、(自分のため)」である。動機が自己中心的でも、結果として人間が相互に生き延びやすくなることにつながれば、それでよいのである。自分を無に(犠牲に)して、他人のために尽くそうと、わざわざ苦闘する必要はない。そういうのは生き物として不自然であり、「偽善者」で全然構わないのである。



十分自分や他人の役に立つだけの機能を提供できるようになるには、それなりの情報、ノウハウの取得、学習が必要である。

人間にとって教育がなぜ必要かと言えば、人間が、自分が生きていくために必要な機能生成能力を身に付けるため、また、十分他人の役に立つだけの機能を提供できる能力を身に付けるためである。自分や他人の環境適応の役に立たない勉強はしても仕方がない、意味がない。

教育を、人間を能力面でふるい分けするための道具として使うのは本来の用法(人間に、変転する環境下で生き延びるノウハウを与える)からすれば間違いである。生き延びていく上で役立つことを教えるのが、学校教育の基本である。


生きていくために必要な機能の獲得は、複数の人間の間で、取り合いになることがある。また、自分の生成した機能を、他者の間に広めるのにも、類似した機能をを生成する他者との競争になる。

また、機能への引換となる貨幣を多く持つ金持ちが、機能を独占して所有する事態も起こる。
この反対に、貧乏人とは、必要な機能を手に入れられない人のことである。

一部の人間による機能の独占は、本来、互助的な生き物である人間の本性になじまないものである。機能は、できるだけ、必要とされる人々へと、必要最低限、平等に分配される必要がある。

病気などで、他者に機能を提供できず、そのため返しの貨幣も貰えずに貧乏でいる人も、ひとたび病気が治れば、あるいは、十分な教育を受ければ、他者に対して有用な機能を提供できるようになる可能性、能力を秘めている。なので、現状では、生活保護とかで、他者から機能を一方的に貰いっぱなしになっている人に対しても、最低限の機能を融通して、生き延びてもらうことが必要である。当世代の親が病気とかで能力的に駄目でも、次世代の子供は優秀という可能性もある。



(c)1998-2006 大塚いわお

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