環境適応的機能主義
1998-2006 大塚いわお



[要旨]

「機能」を、「環境適応、生存に役立つ働き(をするもの)」として捉える。機能とは、個々の生物~人間個人の環境適応、生存しやすさの度合いを向上させるもの、環境適応に役立つ環境への働きかけの最小単位、環境適応の道具、あるいは、人間を環境の中でより生き残りやすくさせるのに役立つ働き、として捉えることができる。


人々は家電製品を買うとき、その「機能」を問題とする。その場合の機能は「日々の暮らしに役立つ働き」そのものを指す。日々の暮らしは環境に取り囲まれた中で生き延びていく過程を指す。従って、家電製品の機能は、利用者が、日々変化する環境の中を生き抜くための、道具の持つ働き、と捉えられる。

例えば、冷蔵庫は、暑い夏でも食中毒を起こさない、食料の新鮮さを保つなど、暑い夏という環境の下で人々が生き延びることを助けるためのものである。そういった冷蔵庫の(保冷)機能は、つきつめて考えれば、利用者の環境適応(所与の環境下で生き延びること)のための働きとして捉えられる。

冷蔵庫を作ったのは家電メーカーであり、さらにつきつめて考えれば、人間の集合体である。従って、冷蔵庫は、家電メーカーの人間が、他の消費者(人間)に対して、持続的な保冷機能という環境適応の働きを提供するための、物的資源と考えることができる。このことから、「機能」という言葉が、「(人間が他者に対して提供する)環境適応のために有効な働き」という意味を持っていると言えそうなことが分かる。

この観点から考えると、「機能」は、「環境適応、生存に役立つ働き(をするもの)」として捉えることができるのではないか。言い換えれば、機能とは、個々の生物~人間個人の環境適応、生存しやすさの度合いを向上させるもの、環境適応に役立つ環境への働きかけの最小単位、環境適応の道具、あるいは、人間を環境の中でより生き残りやすくさせるのに役立つ働き、として捉えることができるように思われる。

あるいは、震災で、建物破壊、停電、断水により、病院の機能が低下した(機能しなくなった)、という言い方がされる。この場合、機能は、人の生命を助ける働き、人の生命を、より維持しやすくなる方向へと持っていく働き、と捉えられる。

または、人間同士のコミュニケーションにおいて、急速な勢いで普及しつつある携帯電話について考えてみる。携帯電話は、従来の有線電話に比べて、いつでもどこにいても、必要な他者と連絡が取れるようにすることを可能にした。電話の携帯化は、通信の時間・空間的制約を一気に取り払ったものであり、人間がコミュニケーション可能な行動範囲を拡大させた。

コミュニケーション行動範囲の拡大は、他者から、助けとなる情報を、いつでもどこでも(時間・空間的制約なしに)、格段に得やすくなる点、人々を確実に生活しやすくさせる=生き延びやすくさせる方向に進歩させた。

したがって、携帯電話の機能は、利用者の、他者とのコミュニケーション機会を、時間・空間的制約を取り払った形で確保することにより、他者からの情報や援助をいつでもどこでも得ることができるようにする働きであり、この働きは、利用者の生存機会を確実に増やす方向に作用する、といえる。

(携帯電話では、この他にも、いつでも携帯電話を持った通話相手を捕まえられるので、なかなか話ができないというストレスがたまりにくくなり、この点でも、人々をより長生きさせる効果がある、ともいえる)。

その他、エアコンの働き(機能)も、部屋の中を、快適な温度に保つことで、利用者をストレスから解放し、生き延びやすくする、辺りにあると考えられる。
 

自分を取り巻く環境の中で生き延びること(環境適応)は、生物(生命有機体)が生物であるための必須の事項である。その点、生物の仲間の一つである人間も、絶えず環境適応の必要性に迫られているといってよい。人間を含む生物が生成したり消費したりする機能は、外部環境に適応して生命維持(のための安全確保など)を行うためにある。

以上のように、従来の機能主義、すなわち機能という言葉をキーワードに社会や生態系に関する現象を解明しようとする学説において、機能を人間(ないし生物有機体)の環境適応に役立つ働きとして捉える機能主義を「環境適応的機能主義」、その場合の「機能」を、「環境適応的機能」と、仮に名付けることにする。
 

人間を含む生物にとって、基本的に、よい(好ましい)状態とは、
(1)自分自身が生き延びること、
(2)自分自身(遺伝的・文化的コピーを含む)が、環境中に、増える、広まること、
(3)自分自身を取り巻く生存条件がよくなること、
といったものと考えられる。上記項目が実現しやすくなっている状態が、人間~生物の環境適応の度合い(環境適応水準)が高い状態であると言える。
そして、人間~生物が、こうした項目を実現するために必要な働きが、「(環境適応的)機能」である。


環境適応的機能主義は、機能を人間~生物(個人~組織、社会)の環境適応、生存に役立つ働きとして捉えるものであり、様々な機能主義の根底を総括する。それは、物資や制度等のハード・ソフトウェアを、環境適応に必要な働きのみを備えた、その働きに絞った、骨組みのみで、環境適応に関係のない装飾を廃したものへと洗練させることを可能にする。そうすることで、物資や制度といったハード・ソフトウェアがなぜ必要かという、本質的な核心を突くことが可能となる。


●環境適応と自然・人工物質

環境適応的機能主義の適用範囲は、人間や生物のみに限定されるものではない。
自然界や人工的に作り出された物質にも、保存性、存続性、安定性の高いものと低いものがある。
安定性の高い、「強い」物質は、環境適応的な物質であり、めったなことで変質しない金やダイオキシンがこれに当たる。一方「弱い」物質は、気をつけないとすぐに変質してしまう物質であり、空気中の酸素に触れると酸化してしまう鉄などがこれに当たる。
こうした自然・人工物質の自己保存に役立つ働きは、そうした物質にとって、「機能的」である。
例えば、鉄を、酸素から遮断する容器は、生の鉄にとっては、酸化鉄へと変質せずに、そのまま存続し続ける上で「機能的」である。

こうした点をも考慮に入れた場合、機能とは、変転する環境下における、物質~生命一般の自己保存~増殖、維持に役立つ働きとして捉えられる。


●環境適応の単位

環境適応を行う主体の単位は、必ずしも、個人、個体、粒子だけとは限らず、それらが相互作用し合って形成する、社会、組織、企業、国家なども、環境適応を行う主体として捉えられる。

従って、環境適応的機能主義の適用範囲には、個人、個体の他に、その集合体である、社会、組織も入ると考えられる。


●「機能」という言葉の従来の辞書の定義(参考)

A.社会学小辞典 1997 有斐閣

(1)ある全体を構成する諸要素が営む動的な活動(家庭)

(2)有機体であれ社会であれ、何らかの全体ないしシステムが存続していくうえで充たされなければならない必要不可欠な条件→機能的要件

(3)部分が全体の維持・存続に対して果たしている作用ないしは働きの効果

....システムが存続していく上で必要不可欠な条件としての機能的要件を、そのシステムの構成部分が充当する働き

B.広辞苑 岩波書店

(1)物のはたらき、(2)相互に連関しあって全体を構成している各因子が有する固有な役割


●シカゴ学派の「人間生態学(human ecology)」とはどこが同じでどこが違うか?

1915~1940頃盛んに行われた人間生態学は、人間が環境の淘汰的、分布的、適応的諸力によって影響される空間的、時間的な関係を対象としている。

人間生態学は、Parkによれば、「都市コミュニティ内で働くさまざまな力が協同してもたらした人口や使節の特有な集合形態を記述することを目指したもの」、とされる。一方、Mckenzieによれば、「人間が組織化される空間的・持続的関係は、環境的-文化的な力の複合作用に対応する変化のプロセスの中にある。人間生態学は、この作用の原理や、それらを生み出す力の性質を確認するために、これらの変化のプロセスを研究することである」とされる。

こうした人間生態学は、人間と環境との相互作用に着目する点では、環境適応的機能主義と同じであるが、分業や機能的要件といったE.Durkheim、T.Parsonsら機能主義理論との理論結合の試みがなされていない。言い換えれば、人間生態学では、「機能」の概念が欠如している。環境適応的機能主義は、それを補うことを目的とする。


●環境適応的機能主義は、環境決定論ではないか? 

人間による環境適応を主眼とすることは、環境決定論であり、人間はその行動を環境によって一方的に規定され、受け身の存在と捉えることになってしまう、という批判が起きることが考えられる。

この批判に対して、人間の環境への適応行動においては、人間の行動が環境に対して全く受け身になるわけではない、と考えることもできる。人間が、環境への適応水準を高めるため、自発的・能動的に環境に働きかけた結果への、環境の側からのフィードバックが、環境に働きかけた当人の行動を新たに規定する形で返ってくる、という点で、人間の行動を環境が決定すると言えるのであって、人間の側の主体性が失われるわけではない。

人間は環境に適応するために、今までにない発見・発明を行ったりするわけであり、それら能動的な行動(環境への積極的なアタック)のあり方は、人間を取り巻く環境次第によって変わってくる。人間行動の環境による規定は、人間→環境→人間→環境....といった、人間と環境との絶えざる相互規定のサイクルの一環として捉えられるのであり、そのサイクルの中には、人間による環境への能動的な働きかけも含まれていると考えられる。

環境への適応結果(適応するための機能を生成・交換・消費すること)が環境の改変をもたらし、新たな環境適応の局面を作りだす。

環境適応→適応がもたらす環境の改変→新たな環境適応...

といった、人間の環境への主体的な働きかけと、環境からのフィードバックとの循環が存在する。

人間が、環境に適応しよう(例 寒さからの解放を得ようとすること)として、環境に主体的に働きかけた結果(例 石油燃料の多用)が、次の段階の新たな環境(温暖化した環境)となって、再び人間に適応を迫る。そういう意味では、人間は、環境への新たな働きかけを行う度に、常に新たな環境適応を迫られるといってよい。


●人間が取る行動の中には、環境適応とは関係ないものも多いのではないか?

人間が、直接環境適応とは関係ない、おしゃれのような装飾的な行動を取れるのも、基本的な環境適応ができているからこそ可能であると捉えることができる。その意味で、根本的な環境適応ができているかどうかに重点を置いて、理論を考える必要がある。


●どうして既存の環境社会学では不適当か? 

環境社会学は、人間による、自分自身のよりよい環境適応水準の達成を目指した、環境の人為的改変(自動車の排気ガス放出)により、かえって人間の環境適応水準の低下(酸性雨による森林破壊)がもたらされる、というジレンマを扱うものである。

環境社会学は、社会学に生態学の視点を持ち込み、環境破壊に注意を促す(環境保護)など、人間をとりまく環境をターゲットにしている点は評価できるが、機能主義の機能概念と環境適応との関連に気付いていない、という問題点がある。要するに、「機能」の概念が欠如しているのである。

いかにして、人間や、人間以外の生物の生命を維持するために役立つ働きである、「(生態学的)機能」を保ちながら、より環境適応水準を向上させるための、自然への働きかけを、どのように行えばよいかを探究していくことが、「機能」視点を加えた新たな環境社会学の使命となる、と考えられる。




●機能と価値

人間の価値観は、人間が生物である以上、生き延びること=環境適応に役立つこと(環境適応水準向上に資すること)がよいことで、そうでないことが悪いことである、というように決まることが多い。その点、人間に環境適応をもたらす働きとしての機能は、人間にとって正の価値を持つ、と言える。


●要求工学(requirements engineering)との関連


1970年代からソフトウェア開発の分野で行われている要求工学は、開発したシステムが有効に使われるためには、顧客の要求を十分汲んだ仕様を満たす必要があることを主張している。

この場合、顧客要求とは、システムを導入することで、競合する他社(他者)よりも、何とかうまく生き残りたい、生存可能性レベルを上げたいという欲求に基づいたものであり、こうした要求実現により、生存可能性を高めることは、すなわち、顧客の環境適応水準を高めることに結びつく。その点、要求工学において、満たされるべきとされている要求が生じた状態は、すなわち、環境適応力を高めるために満たされるべき空洞が出来た状態であり、その空洞を満たすのが、環境適応的機能主義における機能=「環境適応力を向上させる働き」であると言える。


●価値分析(value engineering)との関連

1960年代からその考え方が広まっている価値分析は、製品やサービスの機能を分析する技法である。価値分析においては、機能とは、製品やサービスが購入者の欲求を満足させる性質であるとされている。価値分析において、製品やサービスの価値は、それらが提供する機能を原価で割ったものであり、機能に対する原価の適合性として現されるとされる。

この場合、機能は、人間の欲求を満足させる性質と捉えられている訳であるが、機能がなぜ人間の欲求を満足させるかということを突き詰めて考えると、それらが、人間が変化する環境の中を生き延びていく=環境適応していく上で直面する様々な欠乏、不足状態を充填する性質を持っているからであると考えられる。この点、人間にとって価値ある製品、サービスとは、人間をより環境に適応して生き延びやすくさせる効果を持つものと考えられる。この観点から、価値分析は、環境適応的機能主義と、根本的な考え方の点で大きく関連すると言える。

なお、例えば電気を欲しがる冷蔵庫のように、人間以外にも欲求を持つものが存在するとする考え方もある。


●環境適応と遺伝子

従来、ダーウィニズムや社会生物学では、「適者生存」の考え方が取られてきた。これは、環境に十分適合できた、限られた適者、勝者のみが生き残ることができると捉えるものである。

しかし、これを裏返すと、「不適者不生存」という考え方も成り立ちうる。要するに、よほどの環境不適応でなければ、みな生存するという考え方である。現実の生物を見ていると、よほど不出来なもの以外は、揃って生き残っているという感じであり、こちらの考え方の方が合っているのではないか。

あるいは、「中立生存」、適応でも、不適応でもない、環境適応にとってどうでもいいものも、生き残るという考え方も成り立ちうる。生物には、いろいろあってもなくてもよい装飾的な仕様があるものが多く存在し、このことは、この「中立生存」が成立していることを示していると言える。

ある生物が、いかに優れた環境適応の遺伝子を持っていたとしても、その遺伝子が無効な局面で、その生物が内包する他の遺伝子に環境に適合するのがいないと、環境不適応になって死滅してしまうことは十分考えられることである。

ある生物が、環境適応に優れた遺伝子をもっていると、その生物がセットで持っている、他の環境適応にちっとも役立たない遺伝子も同時に生き残ることになる。

要するに、生物の遺伝子の環境適応を考える上では、個別の遺伝子の良し悪しを見るのは余り現実的でなく、全遺伝子を「ワンセット」で捉え、その中に、その場その場の環境適応に合致したカードに当たる遺伝子が存在すれば、残りの無関係な遺伝子も含めて「生存」、存在しなければ全遺伝子が一挙に「死滅」という捉え方をすべきである。これは、遺伝子の「ワンセット主義」と言える。



(c)1998-2006 大塚いわお


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