集団成果主義
-ウェットな組織に適した成果評価手法の提案-

2004.9 大塚いわお


日本のムラ社会を代表とする、ウェットで母性的な組織に向いた、新たな形の成果主義をここでは提案する。

従来、日本における成果主義は、組織内の個々のメンバーの能力や成果の高低を、一人の上司が査定して、メンバー間に処遇に格差を設ける形で、その成果を決定していた。

ウェットな社会では、従来の個人を評価単位としたドライな成果主義では、個人がバラバラに動いてグループの結束が崩れてしまう。また、よい成績を取った者への嫉妬が渦巻いてしまい、本来各人のエネルギーが向くべき、組織目標の達成にエネルギーが向かなくなる。

その点、従来の個人個人を別々に評価するタイプの成果主義は、欧米のようなドライな社会向けのものであり、個人間の連帯を重んじる日本や東アジアのようなウェットな社会には向かない。

ドライな個人単位の成果評価では、集団全体への貢献~利益を考えず、自分だけの個人的な利己的な損得で突っ走ってしまう。

個人単位のドライな成果主義は、人々の処遇にバラバラに差を付ける。人々の能力に差があることを前提とした処遇をする。そうすることで、組織の人々の間に格差が生じ、一体感が失せる。

これは、バラバラなよそ者同士を寄せ集めたドライな組織では有効だが、「ウチ」の者同士仲良く肩を並べることを指向するウェットな組織では、「ウチの連帯感、一体感」がなくなってしまい、成員の間に疎外感や冷たさが広がり、モラルダウンにつながる。

そこで、ウェットな組織の長所である「集団の連帯、一致団結による集団パワーの炸裂が高水準の成果を生み出す」というポイントを押さえた、集団単位のウェットな成果主義が新たに必要となる。


組織内での成果の高低に応じて処遇に差をつける成果主義は、決して、ドライなものばかりとは限られない。ウェットな成果主義も成り立ちうる。

それでは、ウェットな成果主義とは、どのようなものであろうか?それは、ドライな成果主義のように個人単位の利己的な成果評価をせず、小集団単位の成果評価を行うことである。

ウェットな成果主義では、個人を集団から切り離してバラバラに評価することをしない。仕事を個人に還元せず、集団単位で評価する。

ウェットな社会の成員が持つ、集団への帰属、所属意識の強さ、同調、一体感をプラスの方向に生かす。また、集団間の対抗意識、競争意識を高めることで、仕事の品質を競争力のあるものへと向上させることができる。

日本の会社のようなウェットな組織は、成員に小さなグループを組ませて、互いに対抗させ、競争させると、強力な生産性を発揮する。これは、日本の製造業で、品質強化のためのTQC運動を会社内の従業員に小集団でやらせることで、製品製造品質を大いに高めた例が端的に示している。

このことを成果主義に当てはめれば、ウェットな組織では、成員に小さな集団を組ませて、その集団を成績評価の対象とすることで、集団内部の一致結束と、他集団への対抗、競争意識によって、集団の生産性が向上するきっかけとすることができる。

要するに、組織内部の成績評価について、伝統的な農村における「部落根性」(集落単位で一致結束して、他の集落と敵対しようとする)を利用し、集団間の対抗意識と、集団内の一体化意識を醸成させるのである。

同じ成果主義でも、ドライな成果主義における「この仕事は、オレ個人の成果だ」とする考え方から、よりウェットな「この仕事は、グループみんなの成果だ」とする考え方への転換を図る訳である。

従来、仕事はたいていはグループで行うのであるから、成果もそのまま個人に還元することは難しく、グループ単位で評価するのが適当だということになる。

成果を個々人に帰することをしないことで、当然出てくるのが、フリーライダーの問題である。要するに、自分は何も仕事をしないで、他人の仕事に寄生する成員の発生である。これについては、成果評価単位となる集団サイズを狭めることで、責任の分散を阻止できる。

そうすることで、集団に貢献しない者、すなわちフリーライダーを集団の中でより特定しやすくし、そうすることで、フリーライダーたちが、集団の中で自然といづらくなり、皆必死になってグループ貢献しようとするようになることを狙うことができる。


集団内部での成果配分は、例えばグループ内の自治に任せる場合でも、往々にして、成果の奪い合いになってしまう。声の大きい人が成果を皆横取りすることになってしまい、不公平感が高まると考えられる。その点、その集団に限定して、全員平等が望ましいと考える。要するに、集団間の評価の格差、差別はするが、集団内の評価は皆平等にするということである。


もしも、ある小集団が悪い成績をもらった場合、当然、その小集団内での責任追及の矛先は、小集団の成績の足を引っ張った劣等生や、小集団の成績向上に寄与しなかったフリーライダーに向けられるということになる。

これは、小集団の成績がよかった場合でも同様である。フリーライダーや劣等生たちは、自分が仕事をしなかったにも関わらず、他の頑張った成員のおかげでよい成績を貰えるのであるが、その際に、頑張った成員から、「お前らがいい給料を貰えたのも、オレたちのおかげだぞ。ありがたく思え。」という冷たい蔑視の視線を受けて肩身の狭い思いをすることになる。

そうなると、小集団の成員は、皆そうした非難や蔑視の矛先に当たる当番にならないように、そうした立場に陥ることを回避するように、必死になって、小集団の業績向上に努めるであろう。そうした「他のグループ員に劣等視されたくない」というエネルギーが、会社や官庁全体の業績を押し上げる方向に作用する。

これは、他人の足を引っ張らないようにということを目的とする「減点主義的」な動機付けであるが、にもかかわらず、集団や組織にとっては、業績をプラスの方に押し上げる大きなエネルギーにつながるのである。

要するに、集団成果の高い評価に見合った個人的成果を上げていない者は、恥ずかしくなって、自然と業務に邁進して、高い個人成果をあげようとすると考えられる。

このように、ウェットな成果主義では、成員が、集団内で他人の足を引っ張らないように、マイナスの足を出さないように、自発的に頑張るようになることで、集団の一体感を保ちつつ、従来からの成果主義の目的であった、勤務評定への成果の考慮を同時に実現することができる。


小集団の成員は、グループに対して積極的に貢献することで、自らの成果を高めることができる。そうすることで、狭間、隙間業務や地味なサポート業務へも積極的に取り組む姿勢が作り出せると考えられる。

また、グループの一体感に包まれて、自分の容器サイズがグループ単位まで拡大し、自分がより大きなサイズのパワーを持つことができるように感じて、自分の能力ややる気が増大したように感じる。要するに、一人ではできないことも、皆と一体、一緒ならできるという気になり、グループ各員が集団のパワーを貰うことができるのである。

従来の個人単位の評価主義では、パワーが個人に還元される結果、パワーが全て個人サイズへと矮小化されてしまう。

成果や責任の個人還元は、個人がバラバラに動くドライな社会向けである。ウェットな社会では、今まで強力だったグループの結束を弱体化させ逆効果である。要するに、成果の奪い合い、取り合いで、グループ内の対人関係がギスギスし、モラルの低下につながるのである。また、各自がバラバラに動くことで、共通目標に向かっての一体感がなくなってしまう。また、自分のみの利益を追求し、グループ内の他の人を助けようという気が失せてしまう。

グループ員が、周囲と足並みを揃えての目標達成、成果の実現を行うことがウェットな成果主義の目指すところである。

「周りはどうなってもよい。一人だけハッピーになろう」という従来のドライな成果主義から、「周りと一緒に皆でハッピーになろう」というウェットな成果主義への切り替えが、ウェットな組織の活力を殺さずに、なおかつ成果評価による給与査定を導入することを可能にする。

組織がウェットなこと、ムラ社会的なことは、決して悪いことではない。個人単位での成果評価をすると、力を発揮できないが、成員相互の一体感、調和感、グループへの帰属意識、他グループへの対抗意識をくすぐる形で評価するようにすれば、成員は皆積極的にグループ貢献しようとし、その結果として、高い成果を生み出すと考えられる。


こうしたウェットなグループ指向の成果主義の問題点としては、

(1)「一人の成果も皆のもの」として、能力ある人にぶら下がる無能力者やフリーライダー(何もしない寄生者)が出ることである。そのことへの対策としては、そうした無能力者やフリーライダーをいづらくさせる雰囲気を作ることが考えられる。例えば、グループ員相互で、グループに対して何か貢献したかを相互にチェックして、何もしなかった人を「村八分」にすることが考えられる。

(2)「自分たちのグループさえよければ、残りはどうなってもよい」とするセクショナリズムの台頭があげられる。これに対しては、全体組織への利益貢献のために必要なことで、他のグループが見逃していることを、積極的に自主的にすくわせて、「自分たちのグループの成果です」とアピールさせるように持っていく必要がある。

(3)地味な縁の下での目立たない仕事を、グループ単位で忌避する動きも生まれると考えられる。そうした、地味な一見損な役回りの、ゴミ清掃的な仕事をするグループを、「組織のために必要不可欠な重要な仕事をやってもらっている」ということで、特別に褒める、称える、評価する仕組みや制度が必要となる。

例えば、人のいやがる仕事をしたということに対する特別な感謝状や手当を支給するといったことを行うようにする必要がある。そのままでは、ばば抜きで各グループが自分のところではやろうとせず、互いに相手に押しつけ合う非建設的な態度を取ることになるからである。これを放っておくと、本来必要な仕事がなされなくなり、組織が機能不全を起こして潰れてしまうので、特に注意する必要がある。


小集団内部においては、リーダはいるが、課長や部長といった上長はいないようにする必要がある。そうすることで、集団内でのメンバーの対等平等性を確保することができる。


また、小集団の成果評価に当たっては、一ランク上の管理職が一人で小集団評価を行うのではなく、管理職同士が一つのグループとなって、配下の複数の小集団評価をまとめて行うようにする。各小集団の評価を、1ランク上位の複数の管理職が1つのグループとなって行うことで、小集団が一人の管理職の完全な手下、私物になることを防ぐとともに、配下の各小集団の成果を、複数の管理職の眼を通すことでより客観的な評価視点から評価できるようにする。

その点、ウェットな集団ベースの成果主義においては、従来の組織のように、一つ~複数の小集団を、一人の管理職が単独で面倒を見る組織体制ではなく、新たに、同一階層の管理職同士(課クラスなら複数の課長同士、部クラスなら複数の部長同士)も「グループ化、チーム化」して、管理職グループとして、配下にいくつかの実働グループを持つ、各組織階層間をグループ、チーム同士がツリー化した形で組織のヒエラルキーを実現させることが必要となる。

要するに、1つの「役員チーム1」の配下に「部長チーム11」「部長チーム12」「部長チーム13」・・・がぶら下がり、一つの「部長チーム11」の下に、「課長チーム111」「課長チーム112」「課長チーム113」・・・がぶら下がり、一つの「課長チーム111」の下に、複数の実働小グループ、チームが「実働チーム1111」「実働チーム1112」「実働チーム1113」・・・といった形でぶら下がる、といった形を取るのである。

そして、成果評価に当たっては、「実働チーム1111」「実働チーム1112」・・・の評価を、「課長チーム111」が行い、「課長チーム111」「課長チーム112」・・・の評価を、「部長チーム11」が行い、「部長チーム11」「部長チーム12」・・・の評価を、「役員チーム1」が行うという形を取るようにする。


こうした集団成果主義においては、旧来の「ムラ社会」的な特性を損なわず、集団の一体感、連帯感を保ち、集団パワーを発揮させるというプラスの側面がある一方、陰湿な側面もある。それは、集団メンバーをクビにする方法である。

それは、集団成果主義では、仕事ができなくて、集団の評価を下げたメンバーが、他の集団メンバーに負い目を感じて自ら集団を辞めたり、他の集団メンバーに責任を取らされたり、不満をぶつけられたりして、集団にいづらくなったり、追い出されることになる。そして、一つの集団から追い出されて、他のどの集団にも入れてもらえず、結局、組織内で他に入れてもらえる集団がなくなったら、その時点で、そのメンバーは、組織をクビになる。

要は、成果評価の低い集団では、責任会議を行うようにして、その期の集団の評価を下げたとして、低い評価の原因となったとして、集団から出て行ってもらうメンバーを決めなければならない。そうして排出されたメンバーは、他の集団に拾われなければ、その時点で、組織から追い出される、リストラされる、という仕組みを作る。

こうした仕組みを作ることで、集団メンバーは皆、自分の立場を悪くしないように必死で働くようになると考えられる。


結局、ウェットな組織での成果評価は、個人ではなく、小集団単位で成果評価を行うということに尽きる。それは「集団単位での成果の重視」「集団単位での成果主義」という言葉で要約できる。

その場合、小集団内各メンバーに集団が低い評価を取ることで、自分がその原因を作ったという責任を取らされて追い出された結果、自分がどこにも入れて貰えない、居場所がなくなる、といった「村八分」の恐怖をなくすための「負の動機付け」が、結果的に、高い生産性と業績を組織に対してもたらすのである。


能力主義にも、個人単位の能力主義(個人能力主義)と、集団単位での能力主義(集団能力主義)が考えられる。能力主義は、要するに、能力に応じて別々の処遇をするということであるが、これをウェットな社会でそのまま、従来のように個人単位での能力評定の形でやると、自分と身近な他人との間に差がつくことになり、成員間の一体感や平等感の破壊につながり、個々人のモラルが低下し、組織は競争力を失ってしまう。

これを回避するために、集団単位で、「○○部 A評価」「○○課 B評価」「○○グループ SA評価」のように成績を付けるようにすることで、集団内成員間の一体感、平等感は維持され、なおかつ集団間に扱いの格差が生じることで、「隣の○○グループに負けるな」という集団間の対抗意識に基づくグループ内共通目標が生まれやすくなり、グループ内部がより結束が強まり、より高い成果を出せるようになると考えられる。


(c)2004.9 大塚いわお

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