ウェットな社会におけるドライな対人関係について


(c)2002.10-2002.11 大塚いわお



ここでは、日本や東アジアのような、ウェットな態度が主流とされる社会において、なぜドライな対人関係が、どのようなメカニズムで成立するかについて述べる。



1.はじめに

従来、日本人論とされる書物では、日本人が好む態度は一般的に集団主義的である、プライバシーの観念に疎い、周囲と同調するのが好きである、規制を好むなどとされてきた。こうした態度は、筆者の調査ではいずれもウェットな態度であるという結果が出ている。

しかるに、近年の社会心理学では、[高野、纓坂、1997]に見られるように、心理実験室における実験において、集団主義的とされてきた日本人の被験者たちが取る態度が、個人主義的であり、欧米と変わらないという結果が出ている。このことは、従来の社会心理学において、日本人の取る態度が集団主義的とは言えない証拠であるとされてきた。

上記の現象については、ウェットなはずの日本人の対人関係がドライに変質したことと見るべきであるという考え方がまず成立する。

この点に関しては、日本人はドライか、ウェットかについてのページ、および、社会のドライ・ウェットさと近代化についてのページを参照されたい。



2.ウェットな社会におけるドライな対人関係

しかし、実は、ウェットな対人関係が主流な社会においても、互いの人間関係が全てウェットであるという訳ではなく、ある領域においては、対人関係はドライである、という見方が成立可能である、と筆者は主張したい。

この場合、ウェットな社会においては、対人関係が、その場面に応じて、ウェットな場合とドライな場合と二通り成立し、その点、相反する二面性を同時に持つということになる。ウェットな社会においては、ウェットな人間関係とドライな人間関係とが両方同時に、相互に排他的な形で存在している。ウェットな社会は、その中にドライな対人関係を必然的に内在させている、と言えるのではないか?

上記の仮説を具体的に説明すると、次のようになる。日本や東アジアのようなウェットな社会では、親しい仲間や身内に対しては強い一体感や温もりを求め、甘えの感情を持つ、といったようにウェットな態度を取るのに対して、見知らぬ他人、ヨソ者に対しては、冷たい、人を人とも思わぬようなドライな態度を取る、ということが考えられる。



3.対人関係のウェット・ドライさの二面性が生じるメカニズム

こうしたウェットな社会における対人関係のウェット・ドライさの二面性は、以下のメカニズムで引き起こされると考えられる。

ウェットな社会のように、各人が互いに近づこうとする心理的引力がある状態では、各人の間に、互いに距離を縮める方向へとスクラムを組み、自分の属する集団の表面積を互いに手を取り合ってできるだけ小さくしようする力が対人関係において働いており、他者は形成済の集団の表面から中に入ることができない。こうした力は、1)外部の者を中にいれようとしない、2)集団内の仲間が表面から外に出ようとすると中に引きずり込もうとするものであり、物理的液体における「表面張力」に相当する。こうした状態では、人々は閉鎖的な対人関係を好み、自分が属する集団・仲間内の相手としか付き合おうとしない(自分の属する集団内のことにしか関心がない)。

ウェットな社会における、所属集団にこうした表面張力のような力が働いていることで生まれる閉鎖指向は、人々の間に、自分の所属する集団の内と外とを峻別する傾向を生み出す。そして、所属集団の内側に対しては、互いに同じ集団に属する身内としての一体感や温もり、同じ運命共同体に属する者同士として、互いに相手のことを自分自身のことと同様にして心配し気遣い、助け合う関係が生成される。

こうした人間的な温かさとか相互扶助に満ちたウェットな対人関係は、実は、いずれも外に向かって閉ざされた身内集団内限定の関係なのである。人間同士互いにベタベタくっついて、一つにまとまり合おうとする傾向の強いウェットな社会においては、物質レベルにおける液体の水がそうであるように、生成する集団が、内と外とを区別する「表面」や、集団の外側にいる者が集団の中に入るのを排除しようとする「表面張力」をを自ずと持つようになる。

ウェットな社会においては、身内と外とを明確に区別し、身内に対してはウェットな態度を基準とし、外のヨソ者に対してはドライな態度を基準とするという、対人関係上のダブルスタンダードが、生成する集団に「表面」が存在する以上、自然と成立すると言える。

こうした、対人関係のウェットさの所産である、所属集団にヨソ者が入ろうとするのをハネる「表面張力」のようなものが存在し、ヨソ者が簡単に集団内に心理的に入り込めない社会は、対人関係の面で見知らぬ他人から親しい身内の者になるのに大変な労力を必要とする社会である、と言える。

以下に、ウェットな社会において、身内集団からなるウェットな世界と、ヨソ者や赤の他人がバラバラに行き交うドライな世界とが区別される様子を、図にまとめた。




(付記)ウェットな社会における公共空間、私的空間

上記のように、「身内」と「ヨソ者」を峻別するウェットな社会において、公共空間(駅~電車内や公園)は、不特定多数の見知らぬ他者がバラバラな目的を持って一時的に寄り集う、「ヨソ者」の場であり、冷たいドライな態度が主流の場所となる。

ウェットな社会においては、人々は、地理的に離れた場所に複数の所属「身内」集団を持っており(例えば、日本なら、家庭、職場、学校、趣味のサークルなど)、その際、公共の場所は、ある「身内」集団から抜け出て、別の「身内」集団の中に再び入るまでに、一時的に通過するだけに過ぎない、非人間的な空間として、彼らの前に立ち現れる。

公共の場所は、それゆえ、ウェットな社会では、大切にされない。そこは、何らかの「身内」集団に入団を許可されるためのパスポート=「縁故」を持たない者(浪人、ホームレスなど)の吹き溜まりの場所であり、人間らしい生活が送れるかどうか保証されない。

上記の考察より、ウェットな社会における、公共空間と対比されて捉えられる「私的空間」とは、「身内」集団の内側、只中に当たると考えられる。「私的空間」は、ドライな社会では、個人のプライベートな空間のことを指すが、ウェットな社会では、「私」の世界=自分が所属する身内集団の世界を指す点が異なる。この場合、ウェットな社会では、私的空間であることを示すプライバシーを身内集団自体が持つことになる。この点について詳しくは、「集団プライバシー」についてのページを参照されたい。

上記を要約するに、ウェットな社会では、「公共」=「外(ヨソ者の世界)」、「私」=「内(身内の世界)」という関係が広く成り立つと言える。


(付記)「集団免疫系」としてのウェットな集団

ウェットな社会においては、生成する集団に「表面」のようなものが存在し、身内と外とを明確に区別しようとする。そこには、所属集団にヨソ者が入ろうとするのをハネる「表面張力」のようなものが存在し、ヨソ者が簡単に集団内に心理的に入り込めない。

この場合、ウェットな人間集団における「表面張力」の働きは、実際には、生体の免疫系と、その基本的な考え方が共通であると考えられる。

免疫は、生体の持つ、自分自身と同じ仲間は生体内に受け入れるが、自分とは違う、異質な者は、攻撃の対象として排除する働きである。

一方、ウェットな集団においては、自分たちと同じ身内の者は、集団内に受け入れるが、自分たちとは属性の異なるヨソ者、異質な者は、集団に入ろうとするとハネる(拒絶する)。

このように、自分たちと同じ属性を持つ身内の者を受け入れ、異質な者を排除するのは、免疫と働きが同じであると言える。このウェットな集団の持つこの性質は、「集団免疫」といった用語で言い表すことができる。ウェットな集団は、従来の生体レベルを超えた、集団レベルでの免疫系=「集団免疫系」であると考えることができる。

ウェットな集団において、他者を中に受け入れるかハネつけるどうかの判断基準は、自分たちと共通属性=「縁故」(同じところに住んでいる(いた)という地縁、同じ血が流れているという血縁に代表される)があるか否かであると考えられる。縁故、コネがある=自分たちと、知り合いなどが共通である場合は、中に入ってよいとし、一方、コネがないヨソ者の場合は、「一見さんお断り」といった感じで中に入るのを拒絶することになる。



4.日本社会における二面性の例

例えば、日本においては、学校や官庁や企業の採用試験が異様に厳しいが、これは、組織内外を分ける表面張力が、赤の他人に対して基本的に門戸を閉ざしているからであり、閉じた門を開くために、受験生は、学業や体育面で大変な努力を強いられるのである。

一方、苦労して採用試験に受かり、いったん身内集団の一員として登録されれば、そこには、相互の一体感や温かさに満ちた、家族的でウェットな相互扶助、協力関係が存在し、その関係は、自分から進んでその集団から出ない限り、終生保証されることになる。また、社宅の提供や、ビジネス能力向上のための研修、組織を定年などで退職する際の再就職の世話など、全生活面であらゆる融通が図られることになる。

一方、身内集団以外のヨソ者にとっては、その集団と何らかの縁故(コネ)がない限り、集団内にアクセスして、便宜を図ってもらうことは至難の業である。組織の壁に守られないため、外から吹きすさぶ寒風に直接さらされることになり、その生存のための環境は厳しいものがある。このように、身内集団から外れた者(浪人)は、ドライで冷たい、非人間的な対人関係の中で、自らひとりの才覚で生き延びていくしかないのである。

このように、従来の日本社会においては、ウェットな身内集団と、ヨソ者同士が作るドライな一時的な群集とが対比される形で存在するといえる。


(付記)他の東アジアの社会(中国)における二面性の例

上記の対人関係の二面性は、日本人だけでなく、他の東アジアの人々にも共通に当てはまると考えられる。

例えば、[園田、2001]によれば、中国人は、その取る態度が、自分と関係の無い他人に対しては、敵対的な、人を人とも思わないものになるとされている。例えば、バスや地下鉄では、周囲を蹴落としてでも自分が先に乗り込もうとするし、見知らぬ者同士が席を譲り合うことは稀であるとされる。また、公の場を、見知らぬ他人が主流を占めるゆえ、大事にせず、平気で壊したり汚したりする。一方、同じ血縁で結びついた親族関係にある者同士は、互いに親密な互助組織を作り、強い一体感を持って、生活上の融通を行う。例えば、商業部門に親戚がいれば不足気味の商品が優先的に買えたり、交通部門に身内がいれば、車に乗って旅行に出かけても切符を買わずに済むなどである。

この場合、中国人においては、同じ血縁で結合した者同士のみの間で成立する閉鎖的な対人関係を構築し、その中では、人間的な温もり、一体感に満ちたウェットな対人関係が追求される。一方、その中を外れた、赤の他人に対しては、冷たい非人間的なドライな対人関係が幅を効かせることになる。



5.他社会との比較における日本社会の二面性の特徴

同じウェットな社会でも、日本と中国、韓国などとでは、上記の身内と外との対人関係におけるドライ・ウェットさの点で二面性が見られるという点では共通しているものの、細部にわたっては、かなりの違いが見られる。

例えば、中国人、韓国人の場合、身内集団に入れる者が、基本的に父系の血縁でつながっている者同士に限られる、そういう点で、どの身内集団に入るかが生得的に決まっており、その点、ヨソ者は血縁のないというだけで身内集団に入る資格がない。

これに対して、日本人の場合には、嫁入り・婿入りの際に当人の名乗る姓が、入る側の家族の姓へと変化する「姓変わり」現象が示しているように、血縁レベルにおいても、身内集団に入るために、いったんそれまでの人間関係を白紙にして、一から新人としてこれから所属する集団のしきたりを学び始めるという態度を取れば、必ずしも生得的な血縁関係に関係なく、身内集団の者として迎え入れられる、という点が違っている。

また、日本では、各人が所属する(した)学校や、官庁、会社といった血縁とは無関係な組織が、場合によっては、血縁と同等以上の重要な身内集団として位置づけられることが普通である。それは、例えば、大学レベルでの学閥の存在とか、中央省庁において「農林一家」といったように、組織の中で濃厚な擬似家族的対人関係が主流であることからも裏付けられる。

ただし、日本においても、当初ヨソ者だった者が、こうしたウェットな温かい対人関係を適用される身内集団(企業、官庁、学校など)の者として迎え入れられるまでには、「新人」として入った集団に馴染むためのそれ相応の努力や苦労(いじめに会うなど)が必要という点で、身内集団の持つ「表面張力」は確実に存在する。先の中央省庁の「○○一家」という擬似家族関係のウェットさも、苦労して採用試験に受かった=組織の表面張力を突破して中に入れた者だけが体験できる親密さ、ウェットさなのである。

また、日本において、ヨソ者が何とかこうした、企業や官庁といった組織に入ることを許されるのは、彼らが、まだ特定の組織の色に染まっていない「白紙」状態の者(新規学卒者)か、例え他の組織を経験していても、再びこれから所属する組織の色に自らを全面的に塗り替えることのできる年齢の若い者である場合に限られるのが普通である。日本において、高齢者の再雇用が難しいのは、この点と関係がある。



6.心理実験で日本人がドライな態度を示す理由

では、なぜウェット(集団主義的)な日本人が、心理実験においてはドライ(個人主義的)である、という結果をもたらすのか?それに対する筆者なりの説明は以下のようになる。

心理実験室における実験においては、実験者と被験者、被験者同士の関係は、急きょ一時的に寄せ集められた、互いに見知らぬ他人の関係になることがほとんどで、被験者にとっては、ドライと感じられる対人関係に当てはまる。従って、被験者は、実験者や周囲の同席する他者に対して、自分の身内や親しい友人に対してと同様には一体感や温もりを感じられず、勢い、互いによそよそしい、一時的な対人関係を持とうとするのであり、そのことが、実験において、本来ウェットなはずの被験者がドライな態度を取ることに結びつくと考えられる。

では、どうすれば、心理実験において、日本人被験者にウェットな態度を取らせることができるであろうか?

基本的には、被験者が既に構築している身内関係を、何らかの形でそのまま実験室に持ち込むことによって実現可能である、と筆者は考える。実験室内でも、被験者同士が、互いに親密な身内同士となるように人選面で配慮し、かつ実験室内に、身内以外のヨソ者が入り込まないようにして、被験者同士の温かい一体感を損なわないようにするとともに、相互扶助的な雰囲気へと、実験の場を持っていくことである。

あるいは、身内関係をそのまま実験室に移植することが不可能な場合には、例えば、被験者間の関係を、互いに気の合う、一体感を生みやすい者同士が同じ組になるように組み換えると共に、実験の期間を、当初はヨソ者同士だった被験者間に、同じ運命共同体にあるというウェットな一体感を醸成させるに十分な長さへと延長することが考えられる。


(付記)「閉鎖的・限定的信頼(ウェット社会)」vs「開放的・一般的信頼(ドライ社会)」

[山岸、1998]においては、 人間一般に対する信頼、例えば「ほとんどの人は信頼できる」という態度項目への回答において、アメリカ人の方が日本人よりも、信頼の度合いが高いという結果が出ている。

筆者の考えでは、信頼と社会のドライ・ウェットさとの関連は以下のようにまとめられる。

欧米のようなドライな社会においては、人々は、人間一般を契約の対象として誰でも平等に信用する。相手が約束を守れるかきちんと値踏みした上で、いったん契約を結んだ者は、例え赤の他人でも全面的に信頼する。そういう点で、信頼を結ぶ対象が、誰に対しても広く開かれている、と言える。この点、ドライな社会における信頼は、「開放的信頼」「一般的信頼」と呼ぶことができる。この場合、人々は、契約を破った者に対しては、裏切り者として容赦なく訴訟を起こすことになる。そういう点で、「一般的信頼」は、告訴、訴訟と絶えず隣り合わせの関係にあり、そうした点で、ある程度「冷たさ」を内包していると言える。

これに対して、日本のようなウェットな社会では、人々は、身内の者に対してのみ心を開き、信用する。信頼の対象は、人間一般ではなく、あくまで身内集団内限定の、外に向かって閉じたものとなる。そういう点で、信頼を結ぶ対象が、特定の相手に限定されていると言える。この点、ウェットな社会における信頼は、「閉鎖的信頼」「限定的信頼」と呼ぶことができる。

なお、山岸の説では、日本のような一般的信頼に欠ける社会では、人々は相互監視によって仕方なく集団主義的な行動をとるとされている。これに対して、筆者は、以下のような違う考えを持っている。

日本のようなウェットな社会においては、一般的信頼に欠けるからといって、そこに信頼関係が成り立たない訳では全くなく、人々は身内に閉じた集団の中で、互いに人間的な温もり、愛情、一体感に包まれ、人懐かしさを重んずる。そこには、(あくまで身内の仲間限定ではあるが)極めて深い根源的・原初的な信頼関係が人々の間に存在すると言える。したがって、日本人のようなウェットな人々は、相互監視というよりは、身内の仲間同士に閉じた信頼感によって、互いに心理的距離が近くなるように集団を組んで動くのだと考える。




7.インターネット上の心理テストで日本人がドライな態度を選ぶ理由

日本人はドライか、ウェットかについてのページに述べているように、筆者が運用中の、当サイト心理テストにおいては、訪問する回答者のほとんどがドライな態度の方を、自分の性格に合っているとして選択している。

なぜウェット(集団主義的)な日本人が、インターネット上の心理テストにおいてはドライ(個人主義的)である、という結果をもたらすのか?それに対する筆者なりの説明は以下のようになる。

インターネット上のwebサイトというのは、訪問者にとってみれば、見ず知らずの赤の他人が構築した情報環境である。こうしたwebサイトの環境は、当サイトも含めて、訪問者にとっては、言わばヨソ者の世界に足を踏み入れることに当たり、訪問者は、自ら気がつかないうちに(無意識のうちに)、ドライな態度を取ろうと身構えている状態になる。

そのような状態で、心理テストに入って、誰に対する態度かを特定せずに「あなたは、ドライ・ウェットどちらの態度を好みますか?」と聞かれた場合、訪問者=テスト回答者がデフォルトで取る態度は、見ず知らずのwebサイト作成者=ヨソ者に対する冷たいドライな態度ということとなり、従って、彼らは、例えウェットな性格であっても、ドライな回答を寄せることになる。

このままでは、インターネット上の心理テストでは、ウェットな性格の持ち主を、ドライな性格であると誤判定してしまうことが恒常的になってしまう恐れがある。これを解決するには、心理テストの質問において、「誰に対して」その態度を取るのを好むかについて、1)「身内の親しい者」に対して、2)「ヨソ者、赤の他人」に対して、の2通りに予め分けて回答を求め、両者の回答結果を比較することが考えられる。

その結果、身内の親しい者に対して、ヨソ者よりも有意にウェットな態度を取る者は、その根底的な性格がウェットである、ということが言えるのではないかと考えられる。身内とヨソ者とで取る態度が違う、態度の二面性を持つことが、先に述べたように、ウェットな性格の人々の大きな特徴だからである。

無論、匿名的人間関係が支配するインターネット上での回答であるから、ウェットな回答者は皆心理的なガードが固く、自分のウェットな内面を隠して、ドライな外面を極力見せようとする傾向がある。従って、「身内に対して、ドライ・ウェットどちらの態度を取りますか?」と聞かれた場合も、どちらかと言えば、「ドライ」な方を選択する傾向はあると考えられる。

しかし、心理テストにおいて、「身内」と「ヨソ者」とに対する態度の違いまでを隠蔽することは、ウェットな回答者にとっては想定外であり、その結果、「身内」に対して相対的によりウェットな態度を取ると思わず回答してしまう。その結果、ドライな外面に隠されたウェットな性格が図らずも表面化することになる、と筆者は考えている。



8.仮説の検証-ウェット社会(日本)の分析事例-

上記の筆者の説明が正しいならば、対人関係がウェットとされる日本や東アジアの人々においては、心理テストなどで、身内に対する態度が、ヨソ者、見知らぬ他人に対する態度に比べ、有意にウェットになるはずである。

この仮説を検証するため、インターネットを利用して、主に日本人の若者を対象とした心理テスト形式のアンケート調査を行った。調査は、当サイトを訪れた回答者に対して、筆者が作成したドライ・ウェットな行動様式の17種類の分類項目にそれぞれ相当する17のウェットな態度について、2段階の回答ステージを設けて、それぞれについて「誰と○○する」という態度表現の「誰」の中身のみを取り替え(文章の末尾は2段階を通じて一緒)、どれだけ自分に当てはまるかを回答してもらった。

2段階ある回答の第1段階においては、態度の表現を、「赤の他人と一緒に行動するのを好む」のように、「赤の他人」(ヨソ者)を対象とした内容に統一した。それぞれの態度について「とても当てはまる」から「ほとんど当てはまらない」まで5段階で回答してもらった。第2段階においては、態度の表現を、「身内の仲間と一緒に行動するのを好む」のように、「身内の仲間」を対象とした内容に統一した。回答の形式は、第1段階と同様の5段階であった。

回答者の属性、回答結果の詳細については、回答結果-心理テスト(Dry or Wet 身内 vs ヨソ者)-のページを参照されたい。

回答データを分析した結果、

(1)各回答項目について、「身内」と「赤の他人(ヨソ者)」との間での回答値の平均値の差の検定(対応あり)を行ったところ、17種類の回答項目のうち、「身内」に対して、「赤の他人(ヨソ者)」に比べて、有意に(有意水準0.01)、回答者がよりウェットな態度を取ると出た項目が、15項目と大半を占めた。

(2)各回答者について、「身内」に対して「赤の他人(ヨソ者)」よりもよりウェットな態度を取る回答項目の数が有意に多いかどうかを判定する符号検定を行ったところ、「身内」に対して「赤の他人(ヨソ者)」よりもよりウェットな態度を取る回答項目の数が有意に多い(有意水準0.05)回答者の全体に占める比率は、55.5%と過半数を超えた。逆に、「赤の他人(ヨソ者)」に対して「身内」に対してよりもよりウェットな態度を取る回答項目の数が有意に多い(有意水準0.05)回答者の全体に占める比率は、7%に過ぎなかった。

上記の結果から、日本のようなウェットな社会において、身内に対する態度が、ヨソ者、見知らぬ他人に対する態度に比べ、有意にウェットになる、という筆者の仮説は十分支持された。

上記のアンケートの回答者は、そのほとんどが従来行動様式がドライ化したとされてきた10~20代の若者であり、彼らにおいて、ウェット社会の特徴である「身内」「ヨソ者」間での態度の峻別が見られたということは、彼ら日本の若者が、根底においては、上の世代同様ウェットであることを示す結果となった。



9.今後の課題

一方、ドライな対人関係の欧米においては、身内と見知らぬヨソ者に対する態度の間にウェットな社会ほどの差が見られず、両方とも適度にドライになるのではないかと予想される。この仮説に関しては、今後の調査で当否を明らかにする必要がある、と考えている。


参考文献
高野陽太郎、纓坂英子 "日本人の集団主義"と"アメリカ人の個人主義"-通説の再検討- 心理学研究 vol.68 No.4,pp312-327,1997
園田茂人、中国人の心理と行動、2001、日本放送出版協会
山岸俊男、信頼の構造、1998、東京大学出版会


(c)2002.10-2002.11 大塚いわお

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