「集団プライバシー」の概念について

公園のような、外部のからの不特定他者によるアクセス(内部に入ること)が可能な空間は、公共性を持っており、外部に対して開かれている。そこにいる人々は互いに相手が今何やっているか筒抜けであり、私的な空間ないしプライバシーが欠如している状態にある。

これに対して、個人の内部心理は、基本的に外部に対して閉じており、個人の心の内部で何を考えているか、外に向かってしゃべったりしぐさを取ったりしない限り分からない。これは、個人レベルでのプライバシーである。

従来、このプライバシーの概念は、専ら個人レベル(個人単位)でのみ捉えられてきた。しかし、少し考え方を変えてみると、個人より一つ大きな集団や組織の単位でもプライバシーの概念が成り立つ可能性がある。

例えば、日本の行政組織のように、外部に対する情報公開を十分に行わず、内部の秘密を守ろうとする集団は、集団レベルで外部からの進入を拒む一種のプライバシーが成立していると言える。

集団の外部に知られない秘密を、集団内の仲間うちのみで共有しており、その秘密にはある決まった特定少数のみがアクセスできる場合に、その集団はプライバシーを持っていると言える。

そういう点で、プライバシーの概念は従来考えられてきた個人レベルだけでなく、実は集団レベルでも成立する。集団レベル(集団単位)で成り立つプライバシーは、「集団プライバシー(group privacy)」とでも呼ぶことができる。


集団プライバシーの概念は、集団がウェットな場合とドライな場合とで若干異なる様相を示す。

集団がウェットな場合、液体の表面張力みたいな、外部からのアクセスを跳ね返す力が働いている。集団内部の個々人は互いにベタベタくっつき合い、つながり合っていて、個人レベルではプライバシーがない。しかし、集団外部に対しては閉じていて、内部で何をやっているか明かそうとしないため秘密で分からない状態である。そういう意味で、集団自体が外部からのアクセスを拒む一種のプライバシーを持っている。

ウェットな集団では、個人のプライバシーを犠牲にした上で、集団単位でのプライバシーを確保していると言える。

ウェットな集団では、日本の農村における対人関係のように、集団内で各人が長期間にわたって付き合いを続けるため、周囲の相手のいろいろな側面が多面的~全面的に分かってしまい、互いに隠そう(私的領域を持とう)としても、その内容がすぐに露見(露出)してしまうのである。互いに何を考えているか(何をしているか)すぐ周囲に伝わってしまい隠しようがない。それは、周囲の各人が、当人の行動様式を、「彼はこういうときはこういうことを考えている」みたいにデータベース化して学習しているために可能となる。

ウェットな集団内部では、全ての情報を隠し立てせずに共有することになり、プライバシーは個人単位では存在しないのである。

このように、個人のレベルではプライバシーが成立しない(欠如している)のに、(1ランク上の)集団レベルになるとなぜかプライバシーが成立する(成立可能である)ことが、ウェットな集団~社会が持つ重大なパラドックスである。


人間の作る組織では、組織内で同一階層に属する異なる集団同士の間で、セクショナリズムにより、情報の流通が行われないことがしばしば起こる。例えば、同じ部に所属する第1課と第2課との間がライバル関係にある場合など異なる課同士の間の交流が妨げられて、互いに他の課の知らない当該課員のみの秘密事項を持つことになる。

こうしたセクショナリズムは、自分の属する集団の内部の他者との間に一体感を強く持つ場合、すなわち集団凝集性が高い場合に、集団外部と自分たちとを明確に区別・差別化しようとするために起こる心理的現象である。特にウェットな集団内においては、成員各自の心理的近接と相互の一体融合化の度合いが大きく、その分、より集団内の一体感を高めるために、集団内外の区別をしよう、集団外の人間をよそ者扱いしようとする度合いが高くなる。そういう点で、ウェットな組織ではセクショナリズムの度合いが高いと言える。また、集団サイズが大きくなると、内部でより親しい者同士の間でサブ集団が生じ、サブ集団間でセクショナリズムが発生することになる。この場合、セクショナリズムが存在する各集団内部において、他集団のアクセスを受け入れようとしない、「集団プライバシー」が強固に成立している、と言える。

この場合、一つ一つの集団に集団プライバシーが成立した状態で、各集団を一つにまとめて有機的な社会を形成するには、各集団の代表(例えば中央省庁なら各課の課長)同士が一つ上のレベル(例えば部)において、互いの集団(課)の内部事情について自己開示を行うことで、代表(課長)が異なる下位集団(課)同士の交流を行う役割を担うことが必要となる。異なる下位集団(課)の構成員(課員)同士は互いにライバル心むき出しでよそよそしく仲が悪いが、複数課をまとめる代表(部長)と各課の構成員が互いに打ち解け合い頻繁に交流し合うことで、複数課間の統合が図られ、各課の集団プライバシーが代表経由で流出する、ということが起こる。要するに、一つ上の階層である部レベルから見た場合には、課の集団プライバシーは成立しないが、同一階層(課)の集団同士の関係においては、集団プライバシーが成立するのである。

ウェットな組織では、組織を1階層上がるごとに、下位集団のプライバシーが消滅すると共に、一つ上位の集団のプライバシーが発生する。例えば、部レベルでは、部単位での集団プライバシーが成立する一方、課レベルの集団プライバシーは存在しなくなる。こうして、どんどん階層を上がって行ったとき、社会が逆ツリー状のヒエラルヒー構造をしている(いわゆる「タテ社会」)ため、頂点の集団以外は全て集団プライバシーが消滅することになる。すなわち、社会の個々の構成員が何を考えているか上層部に筒抜けになるため、社会全体の思想統制が一発で可能となる。このメカニズムが戦前の日本における密告社会を成立させる温床となったと言える。

ウェットな社会での個々の集団(省庁における課)における集団プライバシーの確立は、いったん階層を(省庁なら課→部→局と)昇る段階で、各段階より一つ下レベルの集団プライバシーを無効にし、一番上の階層まで昇り切った状態で再度一番下まで(局→部→課)降りてくる再帰的な過程において、社会全体のプライバシーの消滅・欠如をもたらすと言える。


一方、集団がドライな場合にも、集団プライバシーは成立する。ドライとされる欧米社会においても、例えば、諜報機関のように外部からのアクセスを完全シャットアウトして、内部情報の機密性を確保する集団はたくさん存在する。

しかし、ウェットな集団と異なり、ドライな集団では、集団レベルでのプライバシーの個人レベルへの分解(還元・細分化)が可能である。ドライな集団内では、例えば仕事を周囲の他者から距離を置いたパーティション内で行うことを容認するといったように、個人レベルのプライバシーが重んじられる。ドライな集団では、個人の心の中に勝手に立ち入ることが許されず、そういう意味で個人の内部心理が非公共性を持つと言える。

一方、ウェットな集団では、個人の心の中は、集団内の人間なら誰でも立ち入ること、覗くことができる。ウェットな集団内では、構成員の心理的な内面の全面的な自己開示がデフォルトとなっており、そういう意味で、個人の内部心理が(その集団内に限って)公共性を持つと言える。



プライバシーを持つ集団は、外部からのアクセスを拒む点、公共性に欠ける(非公共的である)。プライバシーを持つ集団は、集団自体「私的」領域を確保しており、集団の持つ私的利益を追求する。

日本の行政組織の場合に問題となるのは、本来公的でだれに対しても開かれているべきである(プライバシー概念の成り立ちにくいはずの)組織が、集団・組織単位での私的なプライバシーを追求している点である。「省益あって国益なし」みたい感じで、省庁やさらにその下の局・部・課レベルでの「私的」利益を追求する態度は、日本の行政組織の抱える「集団プライバシー」の問題点を浮き彫りにしている。


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