社会のドライ・ウェットさと近代化


1.ウェットな社会の近代化

社会学関連辞書の定義によれば、 近代化とは、社会が、合理的、科学的、個人主義的になること、人間の評価が、その所属よりも業績によってなされること、分業(官僚制)が進展すること、といったふうに捉えられている。

筆者が、1999.5~7にかけて行った、アンケート調査結果によれば、近代的、進歩的、合理的、科学的といった用語は、いずれもドライな感覚を与えることが判明した。よって、「近代化=行動様式のドライ化」と捉えられる。

アンケート調査結果:合理指向(ドライ)-非合理指向(ウェット)
アンケート調査結果:近代的・先進的(ドライ)-前近代的・後進的(ウェット)

ドライな社会は、考え方が合理的・科学的であり、未踏の分野に積極的に拡散しようとする、独創的であるため、ウェットな社会の個人に比べて、より先進的な考えを持つことができる。近代化を自ら内発的に進める力を持つ。

それに比べて、ウェットな社会は、非合理・非科学的であり、未踏の分野に自分から進んで出ようとしない。前例踏襲的で、独創性を軽んじるため、ドライな社会に比べて、より後進的な考え方を持つことになる(ドライな社会と自分を比べることで、絶えず、後進性のくびきに悩まされる)。近代化を自ら内発的に進める力がない。近代化を、ドライな社会が独創したところの前例を、踏襲・採用する、真似ることにより、初めてなしとげる。
 

ウェットな社会が近代化を進めるには、ドライな社会への同調が不可欠である。
ウェットな社会は、近代化をなしとげたドライな社会の諸制度を見習って、自分たちも急いで近代化をなしとげようとする。
ドライな文化への「同調」、ドライな文化の「権威主義」的受容は、いずれも動機がウェットなところから出ている。見かけはドライだが、中身はウェットのままである。真のドライ化は図れない。真のドライ化を実現するには、同調指向、権威主義を捨て去る必要がある。


2.ドライな文化の「ウェットな」やり方での受容

近代以降の世界においては、ドライな欧米文化が、世界標準であり、望ましいとされている。現在 行動様式の世界標準(global standard)は、欧米的=ドライ であり、世界的により権威ある行動様式は、ドライな行動様式であるといえる。

ウェットな日本社会は、欧米文化に同調して、自由主義、個人主義などドライな行動様式を真似ようとしている。
ドライな欧米文化が、世界標準であることが、権威として働く。ウェットな社会の成員には、自分たちもその(世界標準の)一員になろう(一体化しよう)、そしてそのことで世界の主流派の中に入ろう(欧米並みになろう)とする気持ちを起こさせる。
 

現代日本社会においては、ドライな文化の、「ウェットな」やり方での受容が見られる。
ウェットな社会の成員は、互いに「同調して(みんな一緒に)」ドライな社会の行動様式を真似る。例えば、(ウェットな社会に顕著な)「集団主義的」なやり方で、皆一斉に、ドライな社会に顕著であるところの「個人主義」的に振る舞おうとする(プライバシーの尊重を訴えるなど)。
(周りの皆がそうしているように)欧米的(例えば個人主義的)に振る舞わないと、恥ずかしい(周りの目を気にする)。
しかるに、本当にドライな文化では、人々は、こうした同調を好まない。
 

日本社会は、最初は、自分のウェットな行動様式を変えずに、ドライな社会のもたらす外面的な技術だけを取り入れようとした(いわゆる和魂洋才)。 しかし、表面的な技術導入だけでは、いつまでたっても完全に追いつくことができない。社会がウェットであること(合理性よりも、精神主義を重視するなど)が、真正の近代化を妨げた。

日本社会は、欧米社会のあり方(global standard)に、より完全に同一化するために、行動様式もドライな社会に同調させて合わせようとしはじめている。こうした現象が顕著になったのは、戦後の欧米(特にアメリカ)を社会的行動の手本とする教育を受けた世代の子供が、社会を担うようになったから、と考えられる。

しかるに、「同調」行為(conformism)は、ドライな欧米社会の個人の嫌うところであり、互いが独立した、自律的な振る舞いをすることを望む。その点、同調指向が社会の基本となっている日本社会とは、たとえ見かけが互いに同じになってきていても、なお、根本的なところで仕組みが食い違っている。欧米社会に集団主義的・権威主義的に同調・追随して、横並びになろうとする(例えば、個人主義、自由主義を皆で一斉に真似ようとする)現代日本社会と、人々が反権威主義、非同調指向、横並びよりはバラバラに自由に違う方向に動くことを指向する伝統的な欧米社会とは、見かけがドライである点で互いに似ているにもかかわらず、明らかに根本的なところで、今なお、かみ合わないところがある。

本質的にウェットな社会である日本は、個人主義、自由主義などを、欧米社会が、世界的にみて勢いがある限り、global standardの地位を保っている限りにおいて、真似よう、同一化しようとするのであり、欧米社会の勢いが衰えたときは、また別の、個人主義、自由主義でない、ウェットな社会制度に回帰しよう(真似する対象を変えよう)とすると考えられる。その点、global standardであるなしにかかわりなく、個人主義、自由主義的であり続けようとする欧米社会とは、社会のあり方がが本質的に異なる。


3.ウェットな社会の擬似ドライ化(ドライな社会への見かけ上の同一化)
 

上記の、ウェットな社会のドライ化という現象は、「擬似」ドライと「真正」ドライとの区別、という用語で説明することができる。

(1)「擬似ドライ」な人間は、 (本当はウェットなのだが)権威主義などによって、ドライな行動様式に追従・同調(真似)し、見かけはドライに見える。
(2)「真正ドライ」な人間は、自らの意思でドライに動いている。ドライさが、自然に身についている。
擬似ドライが真正ドライになるには、権威主義、同調指向など、行動の根底にあるウェットさを、捨て去る必要がある。

「擬似ドライ」な行動様式においては、ドライに振る舞う動機がウェットなところ(権威があるから、自分もそれと一体化しよう、真似よう)から来ている。

「擬似ドライ」な人々は、個人主義的な動作を、集団主義的に行う(みんなで同調)。あるいは、反権威的な社会運動に、権威主義的に(見習うべき手本と見なして)追随する。 あるいは、個人主義や自由主義の欧米生まれのドライな学説を権威あるものとして崇拝し、一体感を持とうとする。

要は、ウェットな自分とは正反対の行動をしようとしているのである。その過程で、無意識のうちに精神的葛藤が起きている。 自分のやっていることの矛盾(非同調的な行動様式に、同調する、自由主義を、欧米に追いつくために、官民一体となった統制のうちに取り入れる....)に明示的に気づくと、一種の精神分裂に陥る危険がある。


「擬似ドライ」な人々は、ドライな行動を、「ウェットさ」を保ったまま真似ようとする。「ウェット」な本質のままに行動するからこそ、「真似る」ことになる。例えば、個人主義を、「集団主義的」(皆一斉)に、取り入れようとする。自分たちとは正反対の行動様式を、真似して同一化しようとしている。そこには、深刻な自己矛盾が存在する。

「擬似ドライ化(ウェットな社会による、ドライな社会の真似)」によって実現されるのは、あくまで見かけだけの「擬似個人主義」「擬似自由主義」であり、「真正個人主義」「真正自由主義」...とは区別されなければならない。自分たち本来の行動様式とは正反対の行動様式への、無理やりの(仕方なしの)同調によりもたらされているのであって、同調に疲れると、もとの集団主義、規制主義に戻ってしまう可能性は大きい。自分たちの性向とは反対の行動様式を真似るのは、疲れる。


ウェットな社会である日本においては、生活の欧米化は、確かに進んだが、社会が完全に欧米と同質化(個人主義、自由主義、非同調、独創性の重視..)したとはいいがたい。むしろ、ドライな欧米社会への同調の過程で、自分たちと欧米社会との差異が絶えず意識され、そのギャップを埋めるべく、より完全に手本(よりすがるべき権威)となる欧米の真似をしようと躍起になっているさまがうかがえる。そして、ギャップは永遠に埋まらない。なぜなら、ドライな欧米社会のあり方は、これまでの日本社会において(欧米社会に対する同一化への)原動力となってきた「権威への追随」「同調」とは反対の極致にあるからである。

ウェットな社会は、ドライな社会が優勢である限りにおいて、自分もそれを真似てドライに感じられる行動を取るが、根底においてはウェットさを「温存」しており、ドライな社会が優勢でなくなる、ないし、不仲などの理由でドライな社会との交流が途絶えると、本来のウェットな(非合理、集団主義..)本性が頭をもたげる。

ただし、もとはウェットな社会であっても、いったんドライな自由さなどの味を知ってしまうと、かって身近に存在した、共同体的規制がもたらす人間関係の煩わしさの再発に対する恐れから、ドライなままでいようとする、ということも考えられる。


4.もう一つの「擬似ドライ化」類型
 

擬似ドライ化にも、上記で述べた、積極的に、ドライな社会に同調する形でなされるもの以外に、各人が、ウェットな相互牽制をもたらす共同体的規制から、何らかの外的要因により切り離されることで、受動的・消極的になされるものとがあるといえる。

消極的な擬似ドライ化は、共同体(主に農業)を構成していた各人が、
1)交通・通信の発達により、バラバラに離れて居住する
2)分業化の進展により、別々の異なる業務に従事したり、興味を抱いたりする
ことで、共通の話題がなくなり、各人が自分の世界に閉じこもる形で進む。

こうした消極的ドライ化は、例えば、家族関係において、各人が、別々の時間に帰宅したり、食事を取ったりすることにより、場を互いに共有することなく、それぞれの個室に閉じこもって自分の世界を追求する形で現れる。

ウェットな社会の人々は、もともと共同体内で自己完結する閉鎖指向的な世界に生きてきたために、共同体の外に対して積極的に自ら進んでいく気概に乏しい。そのため、そのままでは、縁故のない見知らぬ他人に対して、信頼をおいて、コミュニケーションを取るということがない。そこで、見知らぬ他人に取り囲まれた状態(いわゆる混住化状態)では、各人が自分の殻を作り、外部に対して閉ざされた、消極的な態度を取ることになる。共同体が、閉鎖的な性質を保ったまま、「個人化」した、とも言える。

共同体規制から外れて、大都会の団地など、見知らぬ同士が隣り合わせに居住するようになった、ウェットな社会の人々は、互いに、相手の持つ閉ざされた(自己完結した)世界を大事にして、相手のところには、自分から積極的には入って行こうとしない(互いに相手のことは、そっとしておこう、とする)。これは、互いに相手に対する配慮(気配り)、(相手が傷つかないような)やさしさを保ったままの自閉化である。

この自閉的態度は、真正のドライな態度とは、個人の世界を大切にする点(個人主義)では同じだが、真正ドライな人々の取る、互いに相手の心の状態をあまり配慮せず(非人間指向)、自分の意見を、相手に対して率直に、白黒をはっきりさせる形で、相手が傷つくことにお構いなしで述べる(反あいまい指向)、..)態度とは、明らかに異質である。かといって、従来の共同体規制下において見られたような、互いのプライバシーの探り合い(干渉)が行われない点、従来のウェットな対人関係とも、異質である。

こうした点で、現代のウェットな社会においては、自閉的個人主義etc.といった、「消極的ないし自閉的な擬似ドライ化」.が、ドライな社会に同調する形での「積極的・同調的な擬似ドライ化」と並行して、進行しつつある、と言える。

以上まとめると、擬似ドライ化は、1)積極型(同調型)と、2)消極型(自閉型)とに、さらに細かく分類される、といえる。


5.ウェットな社会がドライな社会より優位に立つための条件
 

ウェットな社会は、いつも、ドライな社会よりも後進的であるからといって、いつもドライな社会よりも劣勢に立たされている訳ではない。

ドライな社会における技術の発展が止まる(技術的に成熟期を迎える)と、ウェットな社会がドライな社会を上回るようになる(例えば、自動車産業)。

技術が急速に進歩している間はドライな社会が優勢だが、技術が成熟し、進歩が漸進的(小改良の積み重ね)となると、ウェットな社会が優勢となる。ウェットな社会は、大胆な技術革新には向いていないが、既にある技術的前例をもとにした、細々とした手直し、技術同士の組み合わせ変更は得意だからである。

ドライな社会が技術革新を続けている間は、ウェットな社会は、そのcatch upに懸命に努めなければならない(同調型の擬似ドライ化が必要となる)。しかし、ドライな社会の技術水準に、ウェットな社会がいったん追いつくと、今度は、ウェットな社会が、技術の小改良、実用化に(ドライな社会よりも)優れているため、ドライな社会よりも優位に立つことになる。ただし、ドライな社会が再び新たな大規模な技術革新に成功すると、ウェットな社会の成員は、再び、(ドライな社会の成員に比べて相対的に)後進的な状態に逆戻りし、「後追い」を行わなければならない。これこそが、ウェットな社会を悩ます「後進性のくびき」である。

以上をまとめると、近代化(技術革新)の進行においては、
1)革新期 ドライな社会による、独創的で急速な技術革新が行われる時期  →  ドライな社会が有利(ウェットな社会は、追いつくのに精一杯で、「後進性のくびき」に悩まされる)
2)成熟期 技術革新の速度が鈍り、ウェットな社会がドライな社会に追いついて、技術の小改良、実用化を行う時期  → ウェットな社会が有利
の2つのタイプの期間が、循環式に、革新(ドライ有利)→成熟(ウェット有利)→革新(ドライ有利)→成熟(ウェット有利)...といった感じで、繰り返すと考えられる。

なお、ウェットな社会は、合理性などよりも、感情など人間のウェットな部分に訴える文化を生成する能力(例えばアニメ作品など)については、もともとドライな社会を上回っていることが考えられる。



1999.9-2006.6  大塚いわお

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