日本社会は母権制である
-行動様式のドライ・ウェットさの視点から-


(c)1999.8-2001.11  大塚 いわお

〔目次〕

1.はじめに
2.行動のドライ・ウェットさと性別・社会のタイプ
3.日本社会の女性的性格
4.母権制の再発見
5.終わりに


〔1.はじめに〕
 

現代日本のフェミニズムは、欧米社会で唱えられた女性解放論を、そのまま日本に直輸入して、男尊女卑など、女性が差別されているように見える現象に当てはめて考えようとしている。結果として、「日本は男性中心社会である」「日本の家族は家父長制である」といった解釈を行っている。女性の地位は、男性に比べて、全世界どこでも普遍的に低い(女性は、普遍的に男性より弱い)ものであると見なし、声高に、「低い」女性の地位を向上させようとしている。

ところが、一方では、「日本は母性原理で動く社会である」「日本の国民性は女性的である」といったように、日本の社会が持つ女性的性格を示唆する言説も、(そのほとんどは、一言印象を述べただけのものであるが)かなりの数見られるのも事実である。以下に、その例をいくつかあげる。

例えば、〔芳賀綏1979〕では、日本人像のアウトラインを、「《おだやかで、キメこまかく、ウェットで、『女性的(強調筆者)』で、内気な》ややスケールの小さい人間たちの集団」と述べている。

あるいは、〔会田雄次1979〕では、「日本社会の伝統的な特徴を一口でいえば昔から『女流(強調筆者)』の国だったということに尽きよう....いつの世にも広く文化一般に女性が活躍している...日本文化はもとより社会そのものが、『女性的(強調筆者)』性格を強く帯びており、男性的な時代というのは、戦国時代と幕末から明治という外患と変革と動乱が重なった短い2期間しかなかった....この本来的に「女々しい」が平和な国は、男性的資質を帯びるのは外国から強い危機が感じられたときに限られる。その危機が克服されたり、去ってしまったりすると、またもとの女流の世界になる..」、と述べている。

または、〔木村尚三郎1974〕では、「日本人の能力は一般に『女性的(強調筆者)』能力であり、いわゆる「学校での頭の良さ」がある..欧米の学問、科学と技術、芸術をみごとに習得はするが、新しい境地をひらく、学者、思想家、芸術家となると、国際的にまことに数少ない...日本人の心的態度はおそらく秩序形成的、『女性的(強調筆者)』、あるいは伝統的、農業的であるといえよう..」と述べている。

〔河合隼雄1976〕では、「母性原理は、「包含する」機能で示され、すべてのものを絶対的な平等性をもって包み込む。それは、母子一体というのが根本原理である。...日本社会は、『母性原理(強調筆者)』を基礎に持った「永遠の少年」型社会といえる。」と述べている。
 

日本社会は、男性・女性、どちらのペースで動いているのであろうか?あるいは、日本においては、実質的には、男女どちらが勢力・地位として上なのであろうか?以下においては、この疑問について、対人感覚のドライ・ウェットさをキーとして、解明を試みている。
 
 
 

〔2.行動のドライ・ウェットさと性別・社会のタイプ〕

この項では、行動様式のドライ・ウェットさと、性別・社会・自然環境のあり方との関係について述べる。

行動様式のドライ・ウェットさ(個人の取る行動が、周囲の人にドライ・ウェットな感覚を与えるのはどのような場合か、についての分類)は、筆者の調査によれば、個人主義-集団主義、自由主義-規制主義...など、10数項目からなっている。これらの項目を全て合わせると、人間の様々な行動様式を、一通り説明するに足る、十分包括的・網羅的な内容を持っている。このことから、人間の多様な行動様式を、「ドライ」ないし「ウェット」の一言で総括する(ひとまとめにして考える)ことが、可能である。

筆者は今回、

(1)対人感覚(人がその行動・振る舞いによって、他者に与える感覚)のドライ・ウェットさ

(2)自然環境の乾湿(ドライ・ウェット)に対応する社会のあり方(遊牧・農耕)のドライ・ウェットさ

(3)人間の性別(男女)と、取る行動のドライ・ウェットさの面からの性差

について、相互の関連性を検証した。

その結果、これら(1)~(3)の間の相関関係を取ると、
 
対人感覚 自然環境 社会のあり方 当てはまる性
ウェット 湿潤(ウェット) 農耕 女性
ドライ 乾燥(ドライ) 遊牧 男性

という関係が成り立つことを確認した。

(1)については、ドライ・ウェットな性格・態度は何か?についてのページを参照されたい。

(2)については、自然のドライ・ウェットさとの関連のページを参照されたい。

(3)については、性別とドライ・ウェットさの関連についてのページを参照されたい。調査した結果、行動様式のドライ・ウェットさの次元で、行動様式の男女性差に関する学説の大半をカバーできていることが分かった。
 
 

この中から、社会のあり方と、性別との関係を取り出して見ると、
 
農耕=女性
遊牧=男性

という結びつきが成り立つ。
 
 

この結びつきについては、

(1)文化人類学の分野では、例えば、[石田英一郎1956][石田英一郎1967]において、

竜蛇の形をとった水神が、農耕の神として崇められ、同時にまた原初の女神として人類の始祖となるというのが、大地母神の基本的性格である。植物の採取、ひいてはその栽培に人間の生活が依存するとき、そうした営みの担当者として女性の地位が中心的である。農耕的=母権的な文化基盤を持つといえる。
馬をめぐるもろもろの文化要素は、内陸草原地帯に由来する、遊牧的、父権的、合理的、上天信仰的な文化の系統に属する。(以上、筆者による要約。)

といった説明がなされている。

石田の説明から判断すると、自然環境と宗教との関連は、
 
遊牧 天空の父なる神(男性神) 天空を指向する
農耕 大地の女神(女性神) 大地を指向する

という関係が成り立ち、農耕=女性(=ウェット)、遊牧=男性(=ドライ)の、相互結合を支持する結果が出ている。

石田は、農耕=母権的、遊牧=父権的という図式も、同時に提示している。これは、いいかえれば、農耕社会では、女性(母親)が支配し、遊牧社会では、男性(父親)が支配する、ということになる。
 

(2)地理学の分野では、例えば、[千葉徳爾 1978]で、

農耕は、定着して、作物成熟の遅々とした進行を待つ。緻密で倦むことのない繰り返しを必要とするが、女性は、体質・体格ともに男性よりはるかに適している。女性が農耕を主宰することで、作物により高い生産力を期待できる。農耕社会は、女性優位である。農耕のもととなる採集文化は、女から進化した。
牧畜社会では、軍事行動の必要と、家畜管理上の要求から、体力的に優位にある男子青壮年が重視され、老人と女性・子供の地位が低い。家庭では夫の権力は妻より高い(以上、筆者による要約)。

といった説明がなされている。
 

これらの関係が本当に成り立っているかどうかを、性格・態度のドライ・ウェットさを調べるアンケート調査(1999.5~7)で確認したところ、以下のように、予想通り当たっていることが分かった。
 
番号 項目内容 
(仮説=ドライ)
-ドライ- どちらで 
もない
-ドライ- 項目内容 
(仮説=ウェット)
-Z得点- 有意
C12 男性的である 46.154 24.434 29.412 考え方が女性的である 2.863 0.01
A11 一ヵ所に定着せずあちこち動き回る 50.450 20.721 28.829 一ヵ所に定着して動かない 3.618 0.01
B10 遊牧生活を好む 62.727 20.909 16.364 農耕生活を好む 7.733 0.01
C33 天空を指向する 45.249 23.982 30.769 考え方が大地を指向する 2.469 0.01

結局、アンケート結果では、

(1)女性=ウェット=農耕、男性=ドライ=遊牧という結びつきがある。

(2)ドライ/ウェット性格・態度の内容は、社会的性格を捉えるに十分に網羅的である。

ということが確認された。このことから、

(a)農耕社会では、女性が社会運営の主導権を握る、ないし、社会を動かす最も基盤の位置を占有する、社会の根本部分を支配する。その理由は、社会が女性向き(女性的)にできていないと、農耕型の社会を要求する自然条件に適合して行けないからである。言い換えれば、社会が女性のペースで動くことになる。その点、女性の方が、実質的な地位・勢力が上である。

(b)遊牧社会では、男性が社会運営の主導権を握る。その理由は、社会が男性向け(男性的)にできていないと、遊牧的社会体制を要求する自然条件に適合して行けないからである。社会は、男性のペースで動き、男性の方が、実質的な地位・勢力が上である。。

以上まとめると、
 
農耕社会 女性向き(女性が支配する)=母権制
遊牧社会 男性向き(男性が支配する)=父権制

ということになる。
 

(2008年5月 追記)父権制・母権制と気体(ガス)・液体(リキッド)タイプ

上記の対人感覚のドライ、ウェットさは、物理的な気体(ガス)、液体(リキッド)と関係がある。
詳しくは、以下のリンクを参照されたい。

湿度感覚と気体・液体


この気体、液体タイプの分類から、農耕社会と女性の支配(母権制)、遊牧社会と男性の支配(父権制)との関係を見ることが可能である。

アメリカは、遊牧社会タイプに属し、日本は、農耕社会タイプに属する。
アンケート調査を行った結果、
アメリカ的パーソナリティと気体分子運動、日本的パーソナリティと液体分子運動が相関することが分かった。

アメリカ的、日本的パーソナリティと気体・液体分子運動パターン(2008年4月まとめ)

また、男性的パーソナリティと気体分子運動、女性的パーソナリティと液体分子運動が相関することが分かった。

男性的、女性的パーソナリティと気体・液体分子運動パターン(2008年4月まとめ)

このことより、

アメリカ的=遊牧社会=気体的(ガスタイプ)=男性優位=父権制
日本的=農耕社会=液体的(リキッドタイプ)=女性優位=母権制

という関係が成り立つと言える。

〔3.日本社会の女性的性格〕

日本社会は、自然環境のドライ・ウェットさの分類から行くと、「湿潤気候=農耕社会=ウェット」という相関により、ウェットな社会であると、当然ながら、予想される。

筆者は、日本人の国民性が、どの程度ウェット/ドライかについて、文献調査を行った。
その結果は、次のリンクにまとめられている。

日本人の国民性とウェットさとの関連についてのページ
 

上記の調査結果からは、「伝統日本的」=ウェット、という結果が出た。
また、筆者が抽出した、「ウェット」な行動様式は、「ウェット」という一言で、日本人の国民性(行動様式)に関する学説の大半を、カバーできていることが分かった。

一方、「女性的」=ウェットである。

行動様式の「ウェットさ」への当てはまりの有無について、日本人の国民性(行動様式)と、女性的性格(行動様式)との間の関係を、文献調査結果をもとに、洗い出してみたところ、両者(日本人-女性)の間に正の相関があることを確認した。
その結果は、次のリンクにまとめられている。

日本人の国民性と女性的性格との相関についてのページ

したがって、ドライ/ウェットの次元からは、日本的=女性的という図式が成り立ち、日本は女性が支配する(優位に立つ)社会である、ということになる。
その理由付けは、

(1a)日本の国民性が、ウェットである。農耕(特に稲作)社会だから、当然である。
(1b)女性の性格が、ウェットである。

(2)ウェットな性格の内容は、十分に網羅的である(伝統的日本人の国民性についての学説、および男女の性差に関する学説の大半をカバーしている)。

(3)日本の国民性は、(ウェットさを相関軸として考えた場合、)女性的である。

ドライ-ウェット以外の次元でも、日本の国民性は、女性的である。すなわち、安全志向、成功例の後追い(失敗を恐れ回避する)、冒険心の欠如、大組織への依存心の強さ(寄らば大樹の陰)、などが女性的であることを示す例である。

女性的(女らしさを示す)行動様式についてのより詳しい説明は、「高貴な性」(女らしさの生物学的貴重性の視点からの検討)を参照されたい。

なぜ、日本の国民性が女性化したかについては、次のように説明することができる。日本は稲作農耕を基盤にした社会であり、そこでは、土地への定着性や水利面での他者との相互依存など、行動様式としてウェットさが求められてきた。ウェットな行動様式を生み出す原動力は女性にあり(男性にはない)、稲作農耕に適応するための社会のウェット化には、女性の社会全般への影響力が欠かせない。社会のウェット化に女性の力を利用する副作用として、社会における本来ウェットさとは無関係の領域(自分の取った行動に責任を取るか否か、取る行動の安全性に敏感かどうかなど、生物学的貴重さとは関係があるが、ウェットさとは関係がない領域)にまで、女性の勢力が及び、その結果、男性の行動様式の女性化を含めて、日本社会全体が女性的(自分の保身のため、自分の取った行動の責任を周囲の他者に取ってもらおうとする無責任体制、安全さが確認されたことしかしようとしない冒険心の欠如など)となった。

社会において、女性の勢力が男性を上回るから、国民性が女性的となるのであり、国民性がウェットなことは、日本社会において、女性が男性より強いことの証拠である。

日本社会が、男性中心社会というのは誤りである。実は、日本社会は、女性を中心に回っている。言い換えれば、日本社会の仕組みは女性向けにできており、男性には不向きである。

日本において、なぜ女性が強いか?まとめると、農耕(稲作)という,ウェットさ(定着性や対人関係面での相互依存など)を求める、したがって女性的な行動様式を求める、自然環境に囲まれた社会だからである。
 

〔4.母権制の再発見〕

日本は、従来の通説と異なり、実際には、女性の勢力が男性のそれを上回る、女性優位=母権制の社会である。日本を含む東アジアの稲作農耕社会は、対人関係にウェットさを必要とする自然環境であり、その下では、生得的によりウェットな女性が、有利であり、実際に家計管理権限などを掌握しているからである。

母権制は存在しないと言えるか? 結論から言えば、存在しないとは、とても言えない=「明らかに存在する」 。農耕社会は、基本的には母権制である。

母権制の存在が、これまで認められなかった理由を、以下に、着眼点毎にまとめた。

1)「姓名」の付け方

母系制と混同した。男女どちらの姓が、子孫に継承されていくかについて、関心を払い過ぎた。姓が継承される方の性を強いと見なしたため、父親の姓が継承されることがほとんどだったことを、父親の強さと勘違いし、父権制があたかも全世界的な標準であることのように勘違いした。姓は、血縁関係を示す「看板」=外に向けて掲げるものの役を果たす、いわば、「表」の世界のものである。男性の方が、表面に出やすい=外に露出しやすいため、男性の方を付けるのが適当とされたと考えられる。これは、父権制とは、直接には、無関係であると思われる。
 

2)「財産」の所有・管理のあり方

2a)家庭における財産の所有・相続者の性が男女どちらかであるかに、関心を払い過ぎた。財産の名目的に所有する者と、実際に管理する者とが同一でない=分離している場合があることに気づかなかった。名目的所有者が男女どちらかという方にのみ注意が行って、管理者が男女どちらかということに関心が足りない。ドライな遊牧社会では、両者は、男性ということで一致するが、農耕社会では、前者は男性のこともあるが、後者はたいてい女性である。

2b)財産を単に名目的に所有している者よりも、財産の出入り(財政)めの実質的な管理権を握る方が、実質的な地位が上である、ということに気づかなかった。財産管理者(家計の財布を握る者)は、遊牧社会では、男性であるが、農耕社会では、女性である。これは、農耕社会の家庭では、女性の地位の方が実質的に上であることを示している。
 

3)「地域」毎の事情

3a)欧米では、自分の「家父長制」的な文化基準からは、母親がより強い文化があることを想像できなかった。父権制をデフォルトとみなし、「母権制は、遠い過去に消滅した」とする、欧米の学説(Bachofen、Engels)が主流となってしまったため、全世界的に、母権制の存在自体が考えられないものとされてしまった。

3b)日本など東アジアでは、男尊女卑を、男性支配(家父長制)と混同した。あるいは、自分たちより先進的な欧米学説が母権制の存在を否定したため、それを権威主義的に無批判に受け入れてしまい、本当は自分たちが母権制文化を持つことに気づかなかった。
 

4)「自然環境」との関連

男女間での自然環境への適応度の違い、という視点が欠如していた。湿潤環境下で成立する農耕社会のように、「ウェットな人間関係が必要→女性がより適応的=強い」という場合を、想定していなかった。
 

5)「公的組織上の地位」との関連

女性は、生物学的により貴重な性であるため、失敗を犯したことで責任を取らされて、社会の中で公然と生きていけなくなったり、助けてもらえなくなること、すなわち自己の保身ができなくなることを恐れる。公的組織(官庁、企業)において高い地位につくことは、社会的に大きな責任を伴うため、失敗時のリスクが非常に高いため、女性は、組織上の高い地位につくのを進んで避けようとする。その結果、組織上の高い地位は、男性が占めることになる。女性は組織上の高い地位に能力不足などで「つくことができない」のではなく、自己保身の都合上「自ら進んでつこうとしない、つかない、つくのを避ける」。したがって、従来のように、日本において、官庁、企業といった公的組織の高い地位につく人々の男女比率を見て、女性の数が少ないから、女性が弱い、と簡単に言い切ることはできない。女性は例え社会的影響力が強くても、公的組織上の高い地位を、自らの社会的責任回避を目的として、男性に押しつけている側面があるからである。

日本女性による男性支配は、主に、母=息子関係を通じて行われる。日本の女性(母親)は、育児の過程で自分の子供との間に強い一体感を醸成し、自分の息子=男性が自分に対して精神的に依存する、自分の言うがままに動くように仕向けることで、息子である男性に対して強い影響力を保持する。女性は、「教育ママ」として息子=男性を社会的に高い地位につくように叱咤激励し、高い地位についた息子=男性を、自分の操り人形、ロボットとして、思うがままに操縦、管理する。これなら、自分自身は社会的責任を負う必要なく、男性=息子をダシにして強大な社会的影響力を行使できる。妻と夫の関係も、妻=女性が、夫=男性を心理的に母親代わりに自分のもとへと依存させ、夫を高い地位へつくように競争に向かわせたり、高い地位についた夫=男性の管理者として支配力を振るう点、上記の母と息子の関係に根本的に似ている。そうした点、日本の女性は、男性の生活や意識を管理、支配する=男性を自分の思うがままに動く「ロボット」化する者として、社会的地位の高い男性よりも、さらに一段高い地位についていると言え、なおかつ、社会的責任を取ることからはうまく逃れている。男性は、公的組織で例えどんなに高い地位についていても、女性に対して心理的に依存し、管理されている限り、女性に支配されていることになる。
 
なお、日本の公的組織(官庁、企業の職場)が男性中心であって、そこへの女性の進出が進まないのは、女性の高い地位につくことを避ける性向以外にも理由がある。それは、そこが、男性の自尊心を保持できる(家族を経済的に支えているのは私をおいて他にいない、との誇りを保てる)最後のとりでであって、そこに女性が進出してくるのを脅威に感じているからだと考えられる。男性側は、女性には、公的組織における自分の居場所を簡単に明け渡したくない。明け渡すと、せっかく保って来た見かけ上の高い地位からも一挙に転落し、最後の自尊心が消えてしまう。後は(見かけ・実質両面で男性を圧倒する)女性のペースに合わせてひたすら従うだけの社会的落伍者に成り果てるからである。
 

6)「力の強弱」の見せ方との関連

6a)女性は、自分のことを、自ら進んで強いと、言わない(生物学的により貴重な性であるため、男性に守ってもらおうとして、自らを弱く見せる)傾向がある。また、強いことを認めると、取る行動に社会的責任が生じてしまう。そこで、取った行動の失敗時に責任を取らなくて済むようにするために、自分のことを(例え実際は強者の立場に立っているとしても)決して強いと認めず、弱いふりをする必要がある。そのため、自分が権力を握る強者であることを示す「母権制」という言葉を使うのを、好まない。その結果、母権制が存在しないかのように、考えられてしまった。

6b)男性は、自分のことを、進んで強く見せようとする傾向がある。強く見せることで、 自分が自立した存在である(1人でいても、他に守ってくれる人がいなくても、十分大丈夫である、やっていける。あるいは、他者を自分の配下において、統率できる。)こと、ないし、女性を守る能力があること、を周囲にアピールしたがる。そこで、必要以上に、父の権力を強調しがちであった。その結果、父権制が一人歩きすることになってしまった。
 

7)「男尊女卑」現象についての解釈の仕方との関連

ある人のことを、他者よりも優先する場合には、「強者優先」と「弱者優先」との相反する2通りが存在する。「男尊女卑」は、男性的なドライさを否定する農耕社会において、男性を社会的弱者として保護し、その人権・自尊心を保持するための、「弱者優先」の考え方である、と見なすのが正しい。これを、男性を強者と見なす「強者優先」と取り違えた。この点についての詳細は、男尊女卑の本質とは何かについてまとめたページを参照されたい。
 

 

注)男女間での力の強弱を説明しようとするモデルには、 

1)筋力・武力モデル(男性優位)  男の方が、筋力が強い。 

2)生命力モデル(女性優位) 女性の方が、長生きである。 

3)貴重性モデル(女性優位) 女性の方が、貴重であり、大切にされる。 

4)環境適応モデル 乾燥=遊牧=(ドライ=)男性優位、湿潤=農耕=(ウェット=)女性優位。 

5)育児担当者モデル(遊牧=男性優位、農耕=女性優位) 社会における男女の強弱は、自分の性に基づく行動様式を、子供にどれだけ多く吹き込めるかによって決まる。例えば女性が子供に、(男性よりも)より多く自分の行動様式を吹き込めば、社会は女性化し、女性にとってより居心地のよいものとなる。 

が考えられる。従来は、1ばかりが取り上げられ、3~5などは、ほとんど考慮されてこなかった。そのため、父権制=男性優位が全世界的に通用するかの様に捉えられるという過失を招いた。3~5を考慮すれば、母権制=女性優位という考えも十分成り立つことが分かる。 

なお、5)育児は、女性(母性)の占有物とは、世界的には必ずしも言えない。Floidの精神分析論やParsonsの家族社会論に見られるように、欧米(遊牧系)社会では、育児への父親の介入(割り込み)の度合いが強く、父親が育児のdirectorの役割をしている。日本のような農耕社会では、女性が育児のdirectorである。 

なぜ女性は弱く見えるか?あるいは、自分を弱く見せるか?

1)「筋力」モデル 筋力が男性よりも弱い。

2)「守護」モデル 男性よりも、生物学的に貴重であるために、(より貴重でない、使い捨ての性である)男性に守ってもらいたがる(守ってもらおうとする)。その守ってもらおうとする行動が、弱者が強者に守ってもらいたがるのと混同された。


 

〔5.終わりに〕

以上述べたことをまとめると、女性の社会的な強さ(影響力、勢力の大きさ)、社会的地位の高さは、その社会のかもしだす雰囲気(国民性、社会的性格)が女性的、ウェットであるかどうかで決めるのが本筋である(最も確実である)、と筆者は考えている。ある社会の国民性は、その社会において最も大きな影響力、勢力を持つ者の色に染まる、一種のリトマス試験紙のようなものである。社会で女性がより強ければ、その社会の帯びる性格は女性的になるであろう。

従来のように、名目的な財産名義を持っていない、公的組織における高い地位についていない、などといった視点だけで、日本女性の地位を低いと決めつけることは、実は、社会のあり方と性差との関係を表面的にしか見ることができない、社会分析能力の低さをさらけ出していることに他ならない。日本社会は、伝統的な国民性としては、ウェット=女性的であり、それはとりもなおさず、女性の勢力が男性のそれを大きく上回っている、社会において女性が男性よりも強い、社会が女性のペースで動いていることを示している。

今後、日本における女性の地位の高さを正当に評価する人々の数が少しでも増えることが、筆者の望みである。

注)以上述べた理論が、現在の日本で受け入れられる余地は少ないと考えられる。その理由は、 

1)男性→ 自分が優位であるという観念(優越感)が崩れて、不快に感じるため。自分を強者とおだててくれる、既存のフェミニズム理論へと向かう。 

2)女性→ 自分の強さを認めようとしない(認めると、自分を守ってくれる男性がいなくなると考える)ため。弱いふりをしていたい。従来のフェミニズム・女性学の「男強女弱」という見解に固執する。


 

〔参考文献〕

会田雄次:リーダーの条件,新潮社,1979

千葉徳爾:農耕社会と牧畜社会(山田英世編 風土論序説 国書刊行会) 1978

芳賀綏:日本人の表現心理,中央公論社,1979

石田英一郎:桃太郎の母,法政大学出版局,1956
石田英一郎:東西抄,筑摩書房,1967

河合隼雄:母性社会日本の病理, 中央公論社,1976

木村尚三郎:ヨーロッパとの対話, 日本経済新聞社,1974
 



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