生物学的貴重性と性差(クリーム-パン図式)について


(c)1998-2004 大塚いわお


目次

1.はじめに
2.生物学的貴重性
3.クリーム-パン図式
4.保護する・される立場(性役割)のねじれ


〔1.はじめに〕

人間社会における性差を捉えた場合、目に付くことの一つとして、女性は、男性に比べて大切に扱われる傾向がある、というのがある。

例えば、戦争が起きたとき、男性は戦闘員として前線へと駆り出されて自ら死と直面するのに対して、女性は、非戦闘員として後方で「銃後の守り」といったより安全で命を保証される地位を得ることができる。

建築現場など危険を伴う作業で、女性が外れ、男性がすることになったり、あるいは、夜間人通りがないところを歩く時に、男性が女性をエスコートする場面というのが、結構見られる(大学生などで、男性は門限がないが、女性にはよくあるというのも、女性を夜遅い危ない時間に外出させないようにする、という周囲の配慮が働いているからと考えられる)。

女性が危ない目に会って(例えば暴漢に襲われるなど)、男性がそれを助けると、女性はその男性が好きになる、というパターンがアニメ番組などで良く見られる。危険な場面で活躍するのは、男性の役割であるという考え方が定着しているように思われる。

あるいは、前人未到の境地に進出する(宇宙を飛行するなど)場合において、まず男性が宇宙船に乗るなどして、成功するかどうかも分からず、未知の危険と隣り合わせになりながら、新たな領域を切り開く任務を遂行するのに対して、女性が進出するのは男性が何度か成功して安全だということが分かってからの場合がほとんどなのではないか?

このように、女性が男性よりも一歩遅れて進出するのは、新たな環境下に最初に男性を送り込んで実験台に乗せるかたちで(モルモット代わりに)いろいろやらせてみて、大丈夫かどうか吟味してから、初めて自分も進出しはじめるという、女性が持つ、危険を回避しようとする自己保身の傾向によるのではないかと考えられる。

このように女性の方が、自己保身、基本的生命の維持という人間の根本的欲求をより満たしやすい地位に生まれながらにして優先的に就けていると思われる。

その点、女性の方が、男性よりも地位が高いと考えられる。

自分の命が続くことを望むのは、生物にとって最も基本的な欲求である。それが脅かされやすいのが男性で、より維持されやすいのが女性である、ということになる。

こうした、扱われかたの男女差には、両者の生物的差が影響していると見ることができる。
 

〔2.生物学的貴重性について〕

生物学の遺伝レベルにおける、男性・女性の性差は、個体の貴重性・安全確保指向の大小と直結している。生物学的には、人間は、貴重な個体(女性)とそうでない個体(男性)とに分化している。

すなわち、卵子の担い手である女性は、男性に比べて生命を失ってはならず、男性に比べて大切・丁重に扱われている。生物的資源という面から見ると、卵子は精子よりも数が少ないため、あるいは生産コストが高くついているため、より貴重な存在だからだと考えられる。

女性の担う卵子が、大量の栄養分を持つデラックスな姿をしているのに対して、男性の担う精子はベン毛以外はほとんど遺伝子だけという簡素ないでたちである。

また、卵子の数1つに対して、その卵子1つに対応する精子の数は、数千万(だったか、とにかく大量)にのぼる。一月当たり1個だけ一つ一つ大事に出される卵子に対して、一度に数千万単位で出される精子は明らかに粗製濫造のそしりを免れえない。

女性が貴重であるのは、卵子の担い手であるという側面以外にも原因がある。女性は、受精卵を育てる子宮や、生まれてきた乳児に栄養である母乳を与える乳房のように、人間が生殖を行っていく上で決定的なキーとなる育児に関する複雑・精密な機構を体内に備えている。一方の男性は、それらを持っていないか、持っていても機能的には退化している。そういう点で、女性に生き延びてもらわないと、子供が生まれない~育つことができず、次世代の数が激減するため、人間社会にとっては(男性の数が減る場合に比べて)致命的なダメージとなる。

上記のことを、さらに詳しくまとめると、以下のようになる。

(1)貴重品である女性は、その生殖細胞(卵子)に栄養分を沢山付け、その身体に育児機構(子宮、乳房)のような高価な機構を集中させることにより、生殖細胞・身体の作りを、デラックスにする。

(2)消耗品である男性は、生殖細胞(精子)・身体共に、高価な機構は付けず、代わりに、貴重品(女性)のための衝立(防護壁)となって、外部環境から保護するための機構(高い背丈、筋力など)を付ける。

女性は、人間の生殖、生まれる人間の数を増やすことにとって、男性よりも、より致命的ないし決定的な重要性を持つ。それゆえ、女性は、男性よりも、よりよく生き延びてもらわないと、社会にとって困るのである。

例えば、男性10人、女性10人からなる社会があったとする。彼らは皆、通常の生殖能力を持っているとする。戦争が起きて、男性が皆前線に赴き、戦った男性10人のうち、1人しか生き残らなかったとする。残った男性1人が、社会を存続させるため、子孫を残そうとして、10人の女性とsexをしたとき、女性の排卵時期をうまく読み取ってsexすれば、女性一人一人が子供を産んで、1年に10人、社会の中に人間の数を、効率よく増やすことができる。

一方、戦争が起きたときに、男性ではなく、女性が皆前線に赴き、戦った女性10人のうち、1人しか生き残らなかったとする。残った女性1人が、社会を存続させるために、10人の男性とsexしても、女性1人が子供を1人産むだけである。なぜなら、受精卵を子宮の中で、数カ月にわたって育てる必要があるからであり、その間子宮は生まれてくる子供に独占され、新たな排卵もなされないから、何人の男性とsexしても次の子供はできない。したがって、1年に1人しか、社会の中に人間の数を増やすことができない。

このことから、男性が減っても、社会における生命の再生産には支障は起きないが、女性が減ってしまうと、大きな支障が起きることが分かる。女性は、人類が次の世代へと生命のバトンを渡す上で、どうしてもその数を減らしてはいけない、保たなくてはいけない存在であり、ある程度数が減っても構わない「消耗品」としての男性に比べて、より「貴重な」生命資源なのである。

人間は、生存にとって厳しい環境下で、「消耗品」の数が大幅に減少しても、生命の再生産に支障がないように、消耗品(男性)1個体の持つ生殖細胞の数を、貴重品(女性)のそれより大幅に増やすとともに、貴重品(女性)が自己の保身をしやすいように、消耗品(男性)が貴重品を防護しやすいように、各々の行動をコントロールする。すなわち、

(1)貴重品である女性は、自分自身を大切にし(自己愛、自尊心を強く持ち)、自己の保身に敏感である(安全なことが分かっていることしかしようとしない)。一方、

(2)消耗品である男性は、貴重品である女性を保護しつつ、自分自身は消滅しても構わないので、自己愛・自尊心はあまり強くなく、自己の保身についても、女性よりは、敏感でない。
 

女性が身の安全を守るのに敏感で危険な場面を避け、一方、男性が自ら進んで身の危険と直接対決することを迫られるのも、女性の生物学的な貴重さ(男性の非貴重性)の現れであると考えることができる

上記のことは、男性が、危険な目に会う、命を落としやすい、というより不利な立場に立つという点で、男女差別(普通使われるのとは逆で、男性が不利)に結びついている。
 

貴重品としての女性が持つ性格は、安全志向、成功例の後追い(失敗を恐れ回避する)、冒険心の欠如、大組織への依存心の強さである。要するに、自分を危険な目にさらしたくない、自分自身を大切なものと見なし守りたい(自己保身)、という意識がもととなっている。これらは、同時に、日本のような農耕社会の社会心理の基調をなしている。これは、社会の中の、本来農耕とは直接関係ない部分の性格までが、女性の勢力の強さによって、女性化している(女性向きのものになっている)ことを示している。

例えば、女性が主導権を握る農耕社会(例えば日本)は、男性が主導権を握る遊牧・牧畜社会(例えば欧米)に比べて、必ず進歩・近代化が一歩遅れる。ウェットさに加えて、安全指向(安全性が確認されていない領域には、進んで入ることはしないこと)から、新領域への進出の一番手を、常に、男性が主導権を握る、ドライかつ、危険なところにも進んで入っていくタイプの社会に持っていかれるからである。日本(女性が主導)が、アメリカ(男性が主導)に、新しい考え方や、制度・技術の導入などで、1タイミング必ず遅れるのは、このことの現れである。独創性の欠如(物真似ばかり)は、女性主導の農耕社会では、決して悪いことではない。女性の、安全を求めて危険・失敗を回避する欲求からすれば、自分が入るのが世界で初めての、どのような危険が待ちかまえているか分からない、未知の領域に、進んで入ることを避けるのは、当然の行動である。
 

こうした観点からは、女性の方が、男性に比べて、その生命がより重い、より生命救助されやすい存在であると考えられる。この考えが正しいことを、アンケート調査によって確認した。詳しくは、人間の命の重さの不平等性についての検討のページを参照されたい。
 

〔3.クリーム-パン図式〕
 

上記の生物学的な男女の差異を勘案した上で、人間の自然環境下における、生態学的な分布を考えると、女性は、中心付近の安全な地帯により多く位置し、一方、男性は、辺境の、苛酷な外部環境に対して自らを露出しなければならない地帯により多く位置する、ということが言えるのではないか。

人間以外の他の生物でも、メスがオスに比べ安全地帯により多く分布するということが、結構多くあるのではなかろうか?餌付けしたニホンザルの社会構成はそうなるようである。中心部にメスが主に分布し、オスは、司令塔役を勤めるリーダー(数匹)が中心にいる他は、全て外縁部に位置するか、ヒトリザルとして辺境を一匹で彷徨う。 一方、メスは、オスの形成したクッションに(サンドイッチの具の部分のように)守られる形で存在する。

以上のような図式は、「クリーム-パン図式」としてまとめられる。クリームパンをクリームパンたらしめるリッチかつ貴重な内容を持つクリームは、外部の熱を直接受けにくい中心部に位置し、一方より粗末なパン部は、外部の熱に直接当たって、こんがりと焼けてしまう。自らが外界の熱に対するクッション(断熱材)となって、体を張って、内部のクリームを守る。クリームが女性であり、パンが男性である、といえるのではないか。

これは、男性が女性よりも不利であるという形での男女不平等と捉えることができる(女性が一方的に男性よりも不利であるとするフェミニストの声にかき消されてしまいがちであるが)。この性差別は、おそらく生物学的に男女各々の心理システム内に組み込まれているため、あって当然のことだと思い込まれているのが現状である。男性の場合、危険な場面へと、無意識のうちに自ら進んで立ち向かう(生き延びたいという人間本来の「生存指向」ともいえるものを、自ら進んで放棄する)ように、生得的な動機がbuilt-inされているものと考えられる。

こうした、「女性=クリーム(=内部=守られる)」-「男性=パン(=外部=守る)」という図式は、生物学的な根拠がある、と考えられる。そして、生物としての性別がある限り、「女(=クリーム)=内、男(=パン)=外」という図式は、(フェミニストが主張するような「家父長制」とは無関係に)基本的には存在し続けるものである、といえる。

現代において、こうした「女=内、男=外」という図式があいまいになってきたのは、人間の生存しやすさを支える科学技術の進歩に伴って、男性が占めてきた外部ないし外縁領域の安全性が以前に比べて高くなったため、女性がどんどん進出するようになったためだと考えられる。
 

ちなみに、クリーム-パン図式を、自然環境とのかかわりにおいて考えてみると、
人間を含む生物にとって必須となる「水」を中心として同心円を描く(「水中心図式」)と、「内側=水が豊富=農耕」、「外側=水があまりない=遊牧」となる。農耕地域はより「水」に近く、生命を維持しやすい。生物学的に貴重な女性向きである。人間の自然界で生存可能な領域を、内周と外縁とに分けて考えたとき、明らかに「内周(=「水」にありつきやすい=生存しやすい)=クリーム領域」といえる。
遊牧地域は乾燥しており、「水」から遠く、生命を維持しにくい。死んでも構わない男性向きである。「外縁(=「水」にありつきにくい=生存しにくい)=パン領域」といえる。

以上の内容から、「クリーム=内周」領域は、湿潤な「ウェット」な領域であり、「パン=外縁」領域は、乾燥した「ドライ」な領域である、と見ることも可能である。このことは、女性=「ウェット」(=湿潤環境)=農耕社会向き、男性=「ドライ」(=乾燥環境)=遊牧社会向き、という性格分けのあり方と、男女の、自然環境に対する生態学的な分布のあり方とが、合致していることを示す。

上記の「クリーム-パン」図式と、それに関連して取り上げた、さまざまな「内周-外縁」関係の一覧について、以下に図にまとめて示す。
 

クリーム-パン図式などをまとめた図
 
 

〔4.保護する・される立場(性役割)のねじれ〕

女性(貴重品)は、男性(消耗品)から、保護を受けるという点で、男性(消耗品)に対して依存的である。この場合、女性が男性に保護を受けるのは、その生物学的貴重性ゆえであり、弱者であるからとは、あまり言えない。弱者かどうかは、自然環境への適応力の有無によって決まる。適応力次第では、消耗品である男性が弱者として、貴重品である女性の保護を受けるという状態も発生しうる。一方の性の個人が他方の性の他者から保護を受ける原因として、貴重性と(環境不適応に基づく)弱者性とを区別する必要がある。日本のフェミニズムは、この点を、混同しているように思われる。
 

女性は、(虫を怖がるなど)か弱い者としての態度を取ることが多い。背景としては、女性には被保護欲求があると考えられる。この欲求は、生物学・生態学的観点からは、生殖上、よりリッチで数が少ない卵子を生産し、生殖上キーとなる育児に必要な機構を体内に備える貴重な性として、死んだり傷ついたりしても構わない(粗製濫造の精子を生産する)非貴重的性である男性に守ってもらいたい、というところから来る欲求と思われる。

この態度は、日本などのウェットな農耕社会においても見られるが、それは、農耕社会で、女性が、強大な勢力を振るっている事実と矛盾しているように一見見える。女性の真意は、本来の(環境に対して、男性より適合しているところから来る)強さを一時的に覆い隠して、男性を、(貴重品としての自分を守ってくれる)護衛役として都合よい時だけ頼りにして、利用しつくそうとするものであると考えられる。農耕社会における女性のこうした態度が、女性が、男性よりも、(全世界的に)弱いと錯覚させる一つの原因となっている。

たとえそれ自身が強くても、他者に守られるものの例として、天然ダイヤモンドの宝石があげられる。その硬度は最大であり、自分以外のあらゆるものに対して傷を付けることができるにもかかわらず、宝石箱に入れられて、大切に守られる(ダイヤモンドを守る宝石箱は、ダイヤモンドを使ってひっかくと容易に傷がつく点、ダイヤモンドより弱い)。それは、めったに手に入れることができない、なくしたら大変な損失である、という貴重性に基づくものである。それと同様に、農耕社会の女性も、(男性よりも)強いにもかかわらず、生物学的貴重さゆえに、男性から守られる存在である、と考えることができる。強さと守られることとは、決して矛盾しない。
 
 

遊牧社会では、貴重性の次元と、環境不適応による機能障害がもたらす弱者性の次元とで、保護を受ける側が、女性へと一貫しているため、「男性=保護する側、女性=保護される側」という図式が容易に成立する。農耕社会では、貴重性の次元と、環境不適応による弱者性の次元とで、保護を受ける側が矛盾する(前者では女性、後者では男性が、保護を受ける立場に回る)。したがって、遊牧社会のような明瞭な図式は、成立し得ず、男女の地位見積もりの混乱・遅れをもたらした。
いいかえると、日本のような農耕社会では、生物学的に貴重で守られるべき女性が、環境適応面で弱い男性を、守る役目に回っている。これは、保護する・される立場のねじれとして捉えられる。
 

まとめると、
 
女性 安全(生物学的に貴重)
男性 危険(非貴重)

 
女性 生物学的に貴重だから守られる 弱い(環境不適応だ)から守られる コメント
農耕 ×(強い) 矛盾(ねじれ)あり(守られる立場であるとともに守る立場でもある)
遊牧 ○(弱い) 矛盾なし(一貫して守られる立場)

農耕社会における「男尊女卑」行動は、環境に対してより適応的な女性が、環境に対して機能障害を起こした男性を一方的にサポートする(その点、女性にとって一方的な負担となり、不公平感をもたらす)行動として捉えられる。この行動は、遊牧社会の、女性は男性によって一方的に保護されるのみの存在、とする視点からは理解不可能である。男性側の「女性によるサポートは受けて当然」という尊大な態度とも相まって、「農耕社会の女性は、男性に対して、一方的に忍従を強いられる奴隷のような存在である」という、環境適応上の強者として、勢力的に男性を圧倒し、社会の主流の道を歩む実態からかけ離れた解釈を生み出した。これは、女性が、自分のことを守ってもらうために、故意に自分を必要以上にか弱い存在だと見せかけていることと相まって、「弱い女性を、さらにおとしめて、苛酷な目に合わせている」という錯覚を生み出している。

一方、遊牧社会における、「女性尊重(レディー・ファースト)」行動は、環境に対してより適応的な男性が、環境に対して機能障害を起こした(貴重品でもある)女性を一方的にサポートする(その点男性にとって不公平な)行動である。女性が男性のサポートを、当然の如く、尊大な態度で求めるため、男性は女性の下僕のように働く必要が生じ、女性の地位が、実態と反して、高く見積もられる結果(女性上位の社会に見える)を生み出す。それゆえ、「(遊牧・牧畜系社会の)欧米の方が、(農耕社会の)日本より、女性の地位が高い(から、欧米を見習うべきだ)」という、誤った見方を、日本のフェミニストに取らせている。

日本では、女性の環境適応性十分による強さ、および男性の環境不適応による弱さと保護の必要、が生じている。そこには、性役割のねじれが存在する。すなわち、生物学的貴重性の面からは女性が保護されるはずなのが、環境適応の観点からは男性が保護される立場になる。従来の性差に関する研究の大半は、この性役割のねじれに気づかずに、女性は常に保護されるべきか弱い存在と見なしているように思われる。

生物学的には、男性が女性を守るのが、生殖上の貴重さから見て自然である。それと逆の事態(女性が男性を守る)(立場のねじれ)が、農耕社会の典型である日本では起きている。日本社会は、女性が男性を守る(保護する)、生活上の世話をするという側面を持つ社会である。女性が男性を守る側面は、その母性的態度に出ているように思われる。



(c)1998-2002 大塚いわお
 
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