ドライな法律・宗教としての日本国憲法
-日本人の法律「信仰」-

2005.10 大塚いわお


1.「日本社会の除湿機」としての日本国憲法

日本国憲法は、ドライな法律である。すなわち、
(1)個人の自由を尊重していること。表現の自由や、結社の自由を保障していることがこれに当たる。自由主義的であること。
(2)個人の独立、自律性を尊重していること。個々人の基本的人権の尊重や、プライバシーの尊重がこれに当たる。個人主義的であること。
といった性質を持っている。

ドライな日本国憲法は、ともすれば、ウェット一辺倒になりがちな日本社会を適度に乾燥させる「除湿機」の役割を果たしている。

このように、社会が除湿されていることが、ドライ・ウェットな性格を診断する心理テストで回答者がドライな方を選択する一つの原因となっている。回答者は、憲法のことが頭にあり、憲法によって意識を除湿されている。憲法は、抽象的な原則の寄せ集めであり、回答者は、心理テストで原則的な質問項目に当たると、脊髄反射的にドライな方を選択すると考えられる。

日本人の、ドライ・ウェット性格診断への回答傾向を説明したページへのリンクです。

ドライな憲法を信奉することにより、日本人は、自分たちは欧米化した、欧米の仲間に入ったと思っているが、実際には、日本社会は、欧米とは異質なドライ化が起きた「セミ・ドライ社会」になっている。

すなわち、現代の日本人は、ウェットな煩わしい人間関係、相互干渉を切って、余り人付き合いしなくなっている。そこでは、ニートの若者に限らず、引きこもり、自閉の一般化、普遍化が見られ、人間関係が希薄になっている。

その際、心のコアは母子一体感で育まれたウェットなままであり、人付き合いするとまた相互の和合、一体感を重んじるウェットな関係が復活する。そこが、欧米との違いであり、欧米人は、人付き合いしてもドライさを保っており、相手との意見の相違を気にせずに強烈な自己主張を行う。

日本人のセミ・ドライ化について説明したページへのリンクです。


2.信仰対象としての「日本国憲法」

日本においては、ドライな日本国憲法が、「信仰」の対象となっている。要は、日本国憲法は、脱亜入欧の格好の手段であり、欧米社会と一体化するために、ドライな憲法を信仰する。

日本人の頭の中には、「欧米一流、アジア二流」という格付け意識が存在し、自分たちもアメリカが作ったドライな憲法を積極的に信じることで、欧米並みの一流国になれるという意識がある。そこには、欧米への権威主義的追従の意識が見られる。(権威主義自体は、自分も、皆がそこに行きたがる主流派の一員に自分もなりたいという意識の現れであり、ウェットである。)

要は、「ドライさ」が宗教同様の信仰の対象になっている。ドライな態度を身につける、信じることで、欧米一流社会に近づく、仲間入りをすることができる、そうすることで生活が豊かになり幸せになれると考えているのである。

信仰対象である憲法は、そのまま鵜呑みにして信じるべきであり、その内容に疑念を抱いたり、変更しようとする試みは、不信心であるとして批判の対象となる。日本における「護憲勢力」は、「日本国憲法」を信ずる宗教の信者なのである。

日本国憲法は、日本におけるドライな思想の源泉であり、「ドライ・イデオロギー」としての役割を、日本人に対して果たすことになった。

性格のドライ・ウェットさを判定する心理テストで皆「ドライ」な方を選択するのは、自分がドライだと答えることで、自分は欧米と同一ランクになれたと思いたいからである。ドライと答えることで、欧米先進国の仲間入りをした気分を味わえる。ドライさが信仰、信心の対象となったと言える。

戦前は、国家神道が日本の全国民の信仰対象となっていた。戦後は、それが否定され、代わりに、アメリカの作った(押しつけた?)日本国憲法が、信仰の対象になっていると言える。日本国憲法の理念が、従来の国家神道に代わって新たな日本の国家宗教の座につき、日本国憲法の条文が、その聖典の役割をしていると言える。


3.戦前社会へのアンチテーゼ

ドライな憲法への支持は、戦前のウェットな相互監視、言論自由統制の社会に対する嫌悪感もある。

戦前は、ウェットな社会体制で進んだ結果、敗戦となり、失敗した。一方、自分たちに勝ったアメリカはドライな自由な社会であった。そこで、成功するには、ドライな風を社会に入れるしかないという信念が日本人の中に生まれた。その際、ドライな風を入れることが日本社会が欧米並みになる早道であるとの認識もあった。

日本人は、欧米社会のドライさを真似ようと一生懸命になった。そこには、欧米に対する劣等感が奥底にある。

自分たちは本当はウェットなのだという潜在意識があり、ドライな態度を取っている人も、ホンネになると、ウェットな、ベタベタ、ドロドロした態度になる。


4.アメリカ支配の影響

日本国憲法は、日本を戦争で負かして支配権を握ったアメリカの手で作られたものである。

日本人にとって、アメリカは、自分たちの征服者であり、支配者であり、上位者である。支配者のアメリカの機嫌を取る、アメリカに自分たちを何とか受容してもらうには、アメリカの作った日本国憲法を、そのまま受け入れて、信じるしかなかった。

信じないと、アメリカにまた武力行使や制裁をされて、ひどい目に合わされる。一方、信じれば、ドライな欧米先進国の仲間入りができるという、おいしい話もある。そこで、日本人は、皆、一生懸命に日本国憲法を信じたと言える。その信仰が、現在まで続いているのである。

これは、現在でも、日本の国土に、アメリカが軍隊を進駐させ、日本が反旗をひるがえした際には、いつでも首都等を攻撃できる状態にしており、日本を軍事的に支配下においていることも関係あるといえる。


5.ドライさの選択と戦後冷戦

日本人が、ドライな態度を好むのは、戦後の冷戦も影響している。
日本はアメリカと共にドライな自由主義陣営に組入れられた。一方、ロシア、中国のような社会主義陣営は、全体主義的なウェットな雰囲気が支配していた。

日本社会の実体は、本当はウェットな社会主義陣営の方に近いのであるが、うわべだけでもドライな態度を取らないと、欧米自由主義の他国から、自分たちとは異質であるとして攻撃され仲間外れにされてしまう。また安全保障の傘から外されてしまう。


6.一流社会へのプライドとドライさ選択

欧米社会から異質と見なされることは、悲願である脱亜入欧、先進一流国への仲間入りに失敗したことを意味する。要は、自分たちが見下してきた二流のアジアと自分たちが同格であるということになってしまう。

自分たちは一流先進国の一員なのだというプライドを維持する面からは、ウェットな社会だと見られることは避けられなければならない。こうした自分たちは一流国になるんだという高いプライドが日本社会発展の原動力になっていると言える。ドライな憲法信奉もこの一流国を目指すプライドの高さと関係がある。

欧米社会の仲間入りをしたい、まねをしたい、世界の中で一流と認められたいという強い願望、二流は嫌だという高いプライドが、実態はどうであれ、欧米文化に近いドライな方の選択肢を人々に選択させるのである。

ドライな方を選ぶのは、欧米の真似、追従であり、一流社会の仲間入りをしたい、一流と認められたいとうい高いプライドがなせる業である。そうした点、性格のドライ・ウェットさを診断する心理テストは、自分が一流先進国的、欧米的かどうかを試す踏み絵の役割を果たしていると言える。そこで、皆ウェットなコアを押し隠してドライな方を選ぼうとする。要は、「ドライな方がカッコいい」のである。



7.日本国憲法批判とウェット回帰指向

一方、日本においては、日本国憲法はアメリカが作って押しつけたものだとして排撃する人々も存在する。彼らは、日本の敗戦、失敗を心理的に認めることができない(そういう点、別の意味でプライドの高い人々である)。あるいは、戦前の日本社会を諦めきれない。戦前の日本社会は、天皇を中心、頂点に社会が一体化して、心を一つにしてまとまっていた。また、軍事的に華やかに活躍し、領土をたくさん持っていた。そうした過去の栄光を踏みにじったアメリカへの恨みが、彼らを日本国憲法批判へと向かわせていると言える。

日本国憲法を批判する人たちは、心の中のウェットさへの回帰指向、母性指向を率直に認める人々である。すなわち、相互の一体感、和合、協調を重んじる、伝統的な農耕民的感情(日本~東アジアに共通する東洋的な感情)を重んじる。彼らにとって、日本国憲法は、ドライで遊牧・牧畜民的過ぎると映るのである。実はこうした気持ちは、日本国憲法を信仰する側の人たちも心の奥底では持っているのであるが、それを口にしてしまうと、欧米先進国の一員になったという心理状態から引きずり降ろされてしまうので、認めないのである。

日本国憲法は、人々をドライにバラバラに自分勝手にしてしまい、社会の結束、一体感がなくなる。各自が、利己的に自分本位で動き、その結果、社会全体への奉仕の心がなくなってしまう。こうした批判が、伝統的ウェット指向の人々からは、なされてきている。


8.ドライな憲法の「権威主義的受容」とウェットさの持続

一方、日本国憲法の導入により社会がドライ化したと言っても、欧米そのままのドライ化はしていない、心のコアはウェットなままである、とする見方も成り立つ。要は、日本国憲法のようなドライな原則を、ウェットさを保ったまま受容しているとする見方である。これは、日本国憲法の受容のあり方がウェットな「権威主義的受容」である点に現れている。

要は、日本国憲法のようなドライな原則は、世界の中の一流、主流である欧米によって担われている考え方であり、それゆえ、世界の勢力ある主流派に入りたい、仲間入りしたいと考える一心で日本国憲法を受容している。あくまで、ドライな社会が権威あるから、優位に立っているから「真似よう」「後追いしよう」とする考えである。

こうした、ドライな社会が創造した新思想や新技術を権威ある前例として真似る、権威主義や後追い、物真似根性は、主流派指向、同調指向、前例指向につながり、ウェットである。こうした、権威主義、同調・前例指向が息づいている限り、いくら見かけはドライな態度を選んでいるように見えても、根本的には、心の中はウェットなままであると言える。

日本人は、ドライな欧米社会が衰退して権威を失墜すれば、真似するのを止めてウェット回帰しようとすると考えられる。ドライになろうとするのは、あくまで、現時点ではドライな欧米社会が世界の主流を占めているからであり、その条件が消え去れば、ドライであろうとする必要は消失する。その点、日本人は、日本国憲法導入前と後で、心の奥底はウェットなままであり、そんなに変わったとも言えないのである。



9.国民の相互一体感確保の手段としての憲法

現代日本においては、日本国憲法は、国民がそれについて共通に賛同し、ウェットな相互一体感を確保するための「共同信仰」の対象となっていると言える。
本来の日本国憲法作成者のアメリカのようなドライな社会においては、人々は、互いに他人と違う、個性的な意見を持ち、それをバラバラに強烈に自己主張することが普通である。だからこそ、日本国憲法は、個人の独立や自由意思が尊重される文面になっているのである。

しかし、もともと母性的とされる度合いが強いウェットな日本社会では、そうした個人が独立してバラバラに、互いに相違する意見をぶつけ合うのは、相互の一体感を損なうものとして、「和合の精神に反する」として忌み嫌われる。

そこで、日本国憲法の受容においても、憲法が本来持っているドライな空気は巧みに骨抜きされ、「皆が一斉に一緒に信じる対象」として、互いの一体感を確保、強化するための手段、お題目として、戦前の国家神道の代わりに、「共同信仰」されているのが現状である。同じ憲法を信奉していれば、互いに同意する関係に入りやすく、相互の一体感を確保しやすくなるからである。そうした、同じ憲法を「共同信仰」することで得られる一体感が日本人にとっては何よりも気持ちよいものなのである。日本人にとって、憲法は、信心しながら周りと一緒に唱えるお経の一種なのである。

日本国憲法を国民が皆で信仰することで、国家全体としての一体感も得ることができる。



10.アメリカへの心理的依存、甘えの達成

日本人は、日本国憲法を信じることで、憲法作成したアメリカへの心理的依存、甘えも同時に達成できる。

もともと、他人に対する心理的依存の度合いの強い日本人は、対外的にも、どこかに頼りたい、甘えたいという意識を強く持っている。

日本を戦争で負かしたアメリカが、頼りがいがある国のように日本人の心には映り、いつしか、「アメリカの後に付いていけば大丈夫」「アメリカなら何とかしてくれる」といった、依存心、甘えをアメリカに対して持つようになった。

日本国憲法を信じることは、それを作ったアメリカに心理的に寄り掛かり、頼りきることも意味している。日本国民が皆で日本国憲法を信奉することで、日本国全体が、アメリカに対する甘え、依存の感情を満足させているとも言える。

依存心の強さが、ウェットさにつながり、独立、自立心の強さがドライさにつながるとすれば、ウェットで依存的な日本が、独立、自立心の強いアメリカに、心理的に頼りきっているのを示すのが、日本国民による「日本国憲法信仰」の実態である。

ここで問題なのは、自由独立が好きなドライなアメリカは、日本がベタベタ依存してくるのを内心余り快く思っておらず、日本にある程度独立性、自立性を持ってもらいたいと思っていることである。アメリカが、寄り掛かってくる日本を受け止めるだけの余裕がある状態が続けばよいが、財政危機とか、あるいは国同士の仲違いとかで、現在の依存(日本)-受け止め(アメリカ)の関係が崩れたときのことも、日本人は、安全保障のため考えておくべきではなかろうか?


2005 大塚いわお

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