社会のドライ・ウェットさとイデオロギー受容・信仰

2004.6 大塚いわお


日本や中国、韓国のような東アジアのウェットな社会におけるイデオロギー受容、信仰には、まず提唱者、教授者の人格への帰依が第一で、理論は二の次、という点が特徴である。

それに対して、西欧、アメリカのようなドライな社会におけるイデオロギー受容、信仰は、提唱者、教授者の人格によらない、人格から切り離された、理論そのものに対する帰依が特徴である。



ウェットな社会においては、何よりも人と人との心情的な結びつきや人柄が重要視される。宗教や学説の信仰にも、まず「人格ありき」である。

すなわち、ウェットな社会の人々は、「○○先生はできている人だ、すばらしい人だ。人格者だ。惚れた。」「自分も○○先生の後に、一緒に付いて行きたい、従って行きたい。」「○○先生の後ろに付いて行けば間違いない。」といったように、イデオロギー、宗教の提唱者、教授者に対して、その人格の素晴らしさ、魅力にまず重きを置く形で、心理的に感化され、一体・融合化しようとする。

要するに、ウェットな社会の人々は、イデオロギー、宗教の提唱者、教授者に対して、「人格的帰依」を引き起こすのである。

人格の良さ、人柄を最優先する、ウェットな社会の人々は、「○○さんは素晴らしい人だ。」→「○○さんは△△という思想を持っている。」→「人格的に優れた○○さんの言うことは間違いない。それにぜひ自分も合わせよう。」といった順序で思想、イデオロギーを捉える。要するに、思想の担い手が人格的に魅力的かどうかを優先する余り、その思想の内容が果たして妥当かどうかは二の次にしてしまうのである。

また、自分の信ずる思想への反対者への対応でも、「(自分が帰依した)○○さんの意見、思想に反する人は、自分にとっての敵だ。」と、思想対思想の対決ではなく、人対人の対決に持ち込みがちである。

要するに、ウェットな社会の人々にとっては、思想提唱者の人格が一番の関心事で、イデオロギーの内容は二の次なのである。

このことから、ウェットな社会では、例えば、オウム真理教事件のように、最先端の科学を履修した、そういう点で非宗教的なはずの学生が、カルト宗教の提唱者(教祖)の見かけの人格的深遠さについ引き込まれて、その宗教の熱心な信仰者となり、教祖と共に、大暴走を引き起こす、といった事態が、いとも容易に発生する。

ウェットな社会の人々は、例え最先端の科学を習得しても、科学が持つ、「科学や思想の理論内容は、理論提唱者の人格とはあくまで別物であり、独立した、それ自体で評価されるべきもの」という根本的な考え方を理解することができない。ウェットな社会の人々は、理論・思想内容とその提唱者の人格的魅力とを切り離して考えることが苦手である。

ウェットな社会の人々は、思想への帰依について、まず思想提唱者の人格的魅力を最優先するので、いったんその思想提唱者の人格が素晴らしいと思い込むと、彼に強い「愛情、一体感」を感じて、他の帰依者との間で、「自分の方が、他人よりも、○○先生、教祖様に対してより忠実で一体ですよ」という、(提唱者に対する)心理的忠誠、同調の競争を始めてしまうのである。

彼ら、ウェットな人々にとって、思想それ自体の習得、理解は、思想提唱者に対するより強固な心理的帰依を促進し、他の帰依者との間での忠誠競争に勝ち抜き、思想提唱者に「一番のお近づきになる(愛を得る)」ための道具、オマケに過ぎない。

しかし、こうした考え方が、結果的に、思想提唱者と一体になって、盲信に基づく大暴走を生み出すのである。

要するに、こうしたウェットな人々の、思想・宗教提唱者への人格的帰依を第一とする考え方では、思想内容の危険性をチェックできないし、気づいても、思想提唱者との一体感が強すぎて、そのまま突っ走ってしまう事態を引き起こすのである。



一方、ドライな欧米社会では、思想や宗教の内容と人格とは切り離されており、思想や宗教の信仰に際して、思想家、宗教家の人格的素晴らしさは二の次であり、あくまで、思想・宗教の内容そのものが問題とされると考えられる。

要するに、ドライな社会においては、思想やイデオロギーそのものを信仰するのであり、思想家の人格のあり方はさほど問題とならない。専ら、その思想、宗教では何が主張されているか、その内容は正しいかどうか、信仰するに足るかどうかが議論されるのである。

その点、ドライな社会における、思想やイデオロギーへの帰依のあり方は、「非人格的、理論的(理知的)帰依」と呼べる。


(c)2004.6 大塚いわお