対物湿度感覚と対人湿度感覚の共通性

2005.03-2005.10 大塚いわお


本文では、乾湿(ドライ・ウェット)の次元において、物体知覚と、対人知覚とが「=」であることを明らかにする。
物体接触のドライ・ウェット感覚と、対人接触のドライ・ウェット感覚とが共通のメカニズムで起きていることを明らかにする。


本文の内容を分かりやすく説明した図へのリンク(PDF形式)



人と出会ったり、コミュニケーションを取ったときの対人印象・感覚(ドライ・ウェット)の知覚は、肌での触覚による知覚が起きたときと、神経系内で、感覚野の共通の同じ領域を活性化させるため、同様に、ドライ・ウェットと感じられると考えられる。

これは、ドライ・ウェットの乾湿感覚に限ったことでなく、明暗、温冷感覚の知覚についても、対人感覚の知覚と、目、耳、肌の感覚受容器による知覚とで、神経系の同じ部位が刺激され発火するため、共通に、明暗、温冷と捉えられると考えられる。

皮膚、対人関係共通な乾湿知覚は、以下の通りである。
粒子は、皮膚の場合、気体・液体分子、対人関係の場合、他者である。

粒子(分子~他者)が ウェット=湿った ドライ=乾いた
(1)近づき 近づく。 無関心である。
(2)つながり 連続する。つながる。癒着する。共有する。 (関係を)切断する。
(3)着床 くっつく。粘着する。 サラリと離れる。離反する。はがれる。取れる。外れる。
(4)まとわりつき まとわりつく。 手離れがよい。すっとする。
(5)集合 集まる。密度が高い。 散る。密度が低い。
(6)一つ 一体・融合化する。共同する。 バラバラである。互いに独立している。
(7)同じ・仲良し 調和、和合する。 不協和である。衝突、対立する。
物体 つきたての餅 シリカゲルの粒
人間 子供と母親。恋人同士。 たまたま乗り合わせた電車の乗客




では、なぜ、神経系の同じ部位が活性化するのか、皮膚感覚と対人感覚の共通性を探る必要がある。液体の与える皮膚感覚(湿った感覚)、気体の与える皮膚感覚(乾いた感覚)、すなわち、気湿と、個人が他人に与える対人感覚であるドライ、ウェットさとの相関関係を明らかにする必要がある。


その際、例えば、対人関係を図示したソシオグラムや対人相関図のような図では、
・人と人が、互いに愛着し合い、惹かれ合い、くっつき続ける人間関係(友人関係とか)の場合、粒子(人)同士がくっつき合い、互いの心理的距離が最小化する図で表現する。この図は、液体分子同士がくっつき合うのと同じ図式表現となる。この関係は、ウェットに感じられる。

・人と人が、互いに冷淡で、無関心な、すぐ切れる人間関係の場合、粒子(人)同士が離れた、互いの心理的距離が縮まらない図で表現する。この図は、気体分子の動きと同じ図式表現となる。この関係は、ドライに感じられる。

気体・液体分子運動図と、ドライ・ウェットな対人関係を図示した対人行動図ないしソシオグラムは、絵が共通である。ソシオグラムで個人を表す粒子が、他人(相当の粒子)にベタベタくっつき、まとわりついて離れない様は、互いにくっついて離れない液体分子の粒子と同じように表すことができる。両者は、共通にウェットと感じられる。

逆に、ソシオグラムの個人を表す粒子が、他人(相当の粒子)と無関係に、互いに離れて独立に動き回る様は、気体分子の粒子と同じように表すことができる。両者は共通にドライと感じられる。このことは、感覚のドライ・ウェットさで、皮膚知覚レベルと、対人関係レベルとをつなぐ手がかりになる。


気体・液体分子運動図を見せて、素知らぬ顔で「これは、対人行動図ないしソシオグラムです。この人間関係は、ドライですか、ウェットですか?」と聞けば、回答者は、それが本当に各個人の行動、人間関係を描いた図だと思い込んで、回答すると考えられる。そして、皮膚にドライな感覚を与える気体の図については、「この人間関係はドライですね」と答え、皮膚にウェットな感覚を与える液体の図については、「この人間関係はウェットですね」と真顔で回答すると考えられる。

(注:上記について、実際にwebサイトで、気体・液体の分子運動のビデオを、「これは、人々の行動を早送りで表示したものです」とウソをついて見せて、「どの程度ドライ、ウェットと感じられますか?」と質問したところ、気体分子運動はドライ、液体分子運動はウェットと、有意差をもって感じられるという回答を得た。調査結果へのリンクです。)

分子運動図を、ソシオグラム図に置き換える際には、
(1)分子の動きから、人の動きに置き換える。
(2)皮膚感覚から、より内面的な心の奥の感覚へ置き換える。
(3)物理的な動きから、「相手に近づきたい」という心の動きに、置き換える。

といった点に留意する必要がある。


ソシオグラムで人と人とが互いに心理的に近づいている、くっつく、接近している、親近感を持っていることは、皮膚感覚では捉えきれない。
ドライ・ウェットさの知覚は、皮膚という表面レベル(表層)と、対人情動の発生という奥底のレベル(深層)に分かれる。

人間が、人づきあいの中で、液体分子運動パターンの人間関係(互いにくっつき一体化して離れない、一緒に動く)に当たる(接触する)と、心の内部でウェットに感じられ、気体分子運動パターンの人間関係(互いにバラバラに離れて、別々に動き回る)に当たる(接触する)と、心の内部でドライに感じられる、と言える。



ドライ・ウェットな湿度知覚は、より詳細には、皮膚知覚、心理的な対人距離知覚、意味距離知覚、情動・感情体験といった、異なるモードに分けられる。それぞれのモードで、共通に、「くっつく、同一化する、一体化する、離れない」かつ「可動性、流動性がある」という共通の(ドライ・ウェットな)湿度感覚が生み出される。

皮膚感覚知覚においては、分子が皮膚に接着し、蒸発しない場合に、「くっついた、離れない、一体化した」と感じられ、かつ、皮膚を動かすのに伴って、分子が自分も皮膚上を動く場合に「可動性、流動性がある」と感じられる。これがウェットな感覚の元となる。

対人距離知覚においては、個人が他者のもとにベタベタ甘えて、なつき、まとわりつく行動を取ること で、対人距離が最小になること、あるいは、物理距離的に離れていても、同じ価値観を共有する同士であることが、当の個人の動きが「くっつく、同一化する、一体化する、離れない」と互いに感じられる。かつ、生き物としての人間として「可動性、流動性がある」と感じられる。これらは、ウェットな感覚の元となる。

意味距離知覚では、神経系内では、意味や概念、内容が同じ、近いもの同士、連想するもの同士は、距離が短い、くっついていると感じられる。互いに距離が短く、一体化しているので、同一脳内神経カテゴリとして、互いにニューロン同士が連結しあっているとして、ひとくくりにまとめて同一化して捉えることができ、ウェットな感覚の元となる。

対人情動・感情体験においては、相手に対する関心(好き嫌い)の強さ、相手への同情、愛情(あるいは裏返しの憎悪)、共感、感動といった体験が、「(相手に対して)くっつく、同一化する、一体化する、離れない」と感じられ、ウェットな感覚の元となる。

以上のそれぞれ異なるモードに共通する「くっつく、同一化する、一体化する、離れない」かつ「可動性、流動性がある」といった性質は、いずれも液体(分子)の持つ性質であり、そういう点で、「ウェット」とは「液体的」ということができる。

一体感、同一感、接着感、共感は、湿ったウェットな感じを与える。
一体感、接着感が、ウェットな感じの、皮膚と対人関係で共通な核心である。
相手と神経回路が共通である、同じものを共有していると感じられることが、ウェット感につながる。

あるいは、互いにベクトルが合って同じ方向に進み、接近するのは、人でも物でも共通な、ウェットな(湿った)感覚の原型である。一方、互いにベクトル合わず、無関係な方向に進むのが、ドライな(乾いた)感覚の原型である。


乾湿、温冷、硬軟といった感覚は、皮膚感覚以外に、対人感覚でも生じるのであり、それぞれ、体内の異なる感覚受容器に対応していると考えられる。

相手との心理的距離が近づき、心理的に一体で離れないことを知覚すると、ウェットに感じる。神経系内で、他者との心理的一体感を知覚するところが、対人(乾湿)感覚受容器である。心理的一体感=ウェット感は、相手と自分との間に共通部分が増えると、ウェットと感じる。対人感覚受容器は、相手との共通性の高さを知覚する。

相手との心理的距離、心理的近接についての説明へのリンクです。


皮膚感覚受容器では、刺激されると、くっついた、離れたと感じる。物がくっついた、離れたの判定を行う。触覚で、皮膚にくっついて離れない、持続的に何かが触れている、かつ移動すると感じると、湿った、ウェットと感じられる。

対人感覚受容器では、神経系のどこかに、皮膚のように体外の外界に直接触れない内部に、感覚受容器がある。自分に近づく、くっつく、一体だと湿った、ウェットと感じられる。

皮膚感覚と対人感覚とは、皮膚と心の奥底の、異なる感覚モードを超えた、共通の感覚として、同じ「湿った」という言葉で捉えられる。モードは違うが、神経系の内部の、乾湿感覚に関わる共通の神経回路を活性化させる。
対象が、自分と「くっついた」「離れた」(離合)を判定する、乾湿判定回路の活性化が起きる。

乾湿判定回路は、
(1)皮膚、触覚 皮膚にくっついて触ったまま離れないと「湿った」、皮膚に一時的に触ってすぐ離れると「乾いた」と判定する。
(2)視覚(目) 自分の子供のように、いつも自分のそばにいて離れない、まとわりつく、甘えることが目で見て分かるとウェットに感じる。
(3)心の奥底(対人) 周りの意見に同調したり、電話で親密な対話を交わしたりして、他者と心理的に近接したり、感動したと知覚すると、ウェットに感じる。
(4)温度感覚との関連では、自分に触れてくる相手の身体の温かさを知覚するとウェット、感じないとドライに感じる。


「あの人とあの人は、仲良しだ、親密だ」とか、「恋愛で誰と誰とがくっついた」みたいに、対人関係においても、親「近」感とか疎「遠」、「あの人とお近づきになる」といった表現が存在することで、対人的にも遠近感が成り立っていることが分かる。一方、互いに皮膚で触れ合うことは、それだけ互いに接触するほど距離が近いことを示している。

人間が脳の中に作る、テレビドラマやアニメの登場人物間の相関図に表されるような「対人関係地図」上の人と人との近さ、距離感が、対人関係上の遠近感に直結する。

この点、対人距離感覚と皮膚感覚とは、脳の中で、距離の近さを知覚する領域を共通に活性化していると言える。距離感覚と、ドライ・ウェットさの感覚とは、互いに、「距離が離れた、遠い=ドライ」「距離が近い、くっついた=ウェット」という相関によって、大きく関係していると言える。



こうした場合、心理的な距離が近い、親密なウェットな仲の人同士は、出会えば、あるいは自由に放っておけば、自然の成行で、物理的に一緒にくっついて行動する、一体化、密着して行動したがると言える(例えば、濃厚なキスやセックスをしょっちゅう繰り返す恋人同士みたいに)。

というか、本来、人間には、相手と、物理的にずっと一緒に、くっついて、一体化していたいという物理的近接への欲求がまず存在するが、互いに別々の生命として生きていく以上、ずっとどこ行くのも一緒という訳にも行かないから、やむを得ず時々離れ離れになる。しかし、その間も、相手のことを絶えず思っていて、できればまた物理的に一緒になりたい、くっつきたいと思う。そうした、物理的近接が叶わない状態での相手への想像上の疑似近接、物理的近接の心理的シミュレーションが「心理的近接」として現れると考えられる。

要するに、物理的近接と心理的近接は互いに大きく関係しており、本来なら、物理的に互いにずっと近接して、一緒にいたいけれど、用事ややむを得ない事情で離れ離れになっている人々が、「自分たちは、現状では、やむを得ず離れ離れなんだけれども、本当は、ずっと物理的に一緒にくっついて、一体化していたいんだ」という思いを、「心理的近接」という言葉で、物理的近接の不足を補償するものとして、用いていると考えられる。

あるいは、相手への物理的近接を実現しようという欲求、動因が、心理的近接であるとも言える。

その点、物理的な相互の近接、密着の実現という「物理的近接」がメインであり、「心理的近接」はその不足を補うサブの役回りにあると考えられる。「あの人と(心理的に)お近づきになりたい」というとき、当人は、相手と、本当は物理的にずっとくっついていたい、触れ合っていたいのである。

相手と一緒にいるのが楽しいとか、一緒にいると心が安らかになるとか、相手との物理的近接を望む心理的原因にはいろいろなものが考えられるが、それらが、人の心にウェットさをもたらしているのだということになる。あるいは、自分と相手とが同質であると思うほど、互いに物理的にくっついて一体化しても違和感がないというウェットな感じが生まれる。

一方、相手が皮膚に触る、愛撫する、くっつくというのは、言うまでもなく、相手が皮膚に近接、密着している=物理的に近接していることを表している。

こうした点、皮膚の湿度感覚と、対人湿度感覚は、互いに、対象の自分への物理的近接、一体化(を指向すること)の知覚ということで、共通に、「物理的近接(への指向)=ウェット(湿った)」「物理的遠隔(への指向)=ドライ(乾いた)」として一括りにして捉えることができる。

ソシオグラムないし対人関係相関図等における人間粒子同士の対人関係上の遠近は、その根底に、粒子(人間)同士の物理的な遠近への指向を内蔵している点、気体・液体分子運動のような物理的な粒子(分子)同士の遠近と、本質的に同一であると言える。

それゆえ、人間の行動も、分子運動も、共通に、「気体的=粒子の(物理的な)相互遠隔化=ドライ」「液体的=粒子の(物理的な)相互近接化=ウェット」という、物理的な共通のパターンで表すことができると言える。

ここで、通勤用満員電車の乗客たちのように、物理的にやむを得ず近接、密着している(ウェット)が、心理的にはお互い無関係で、本当はできるだけ離れていたいというドライな欲求を持っている場合も考えられる。

この場合、満員電車の乗客は、通勤先の最寄り駅に到着して電車のドアが開くや否や、電車から一斉に飛び出してバラバラに散らばっていく。要するに、やむを得ない理由で一時的に物理的に近接しても、最終的に、電車車両という拘束を解かれる(自由に放任される)と、自発的に物理的に分散し、遠ざかっていく。

満員電車の乗客は、互いに皮膚と皮膚が触れ合う状態にあり、その点ではウェットなのであるが、それは彼らにとって一時的なやむを得ない現象である。乗客たちは心の中では肌と肌が触れ合う状態を不快に思い、その状態が続くことを望んでいない。

肌と肌が触れ合うウェットさ(物理的近接)は、生計を立てるために勤務先に行くのに必要な強制されたウェットさであり、彼らは本心では物理的遠隔を指向しており、ドライなのである。それゆえ、目的地の駅に到着して、行動の自由を獲得すると、彼らは互いにバラバラに離れていく。

電車乗客は、根底に相互の物理的遠隔への指向を持っている。こうした周囲他者とのドライな物理的遠隔を実現しようという欲求、動因が、心理的遠隔(ないし疎遠)であると言える。

もしも、勤務先オフィスビルが都心に集中しているため、そこに定時に一斉に向かわざるを得ないという、現実の束縛から仮に自由に解き放たれたら(テレコミューティング、フレックスタイム通勤が実現したら)、乗客たちは、もはや満員電車に一斉に乗らないで、バラバラな目的地へと互いに離れて好きな時間に通勤するであろう。

結局、自由に放っておかれた(自由な行動を許された)時、あるいは、現実の人々の行動を束縛する条件(経済的、身体的・・・)が解消されたと仮定した時、人々に本心の発露が許可されたと仮定した時に、人々が互いに物理的に近づくか遠ざかるか、どちらの行動をとろうとするかによって、その人が、本当はドライ(物理的遠隔への指向を持つ)か、ウェット(物理的近接への指向を持つ)か、どちらなのかが初めて見えてくると言える。

このように、心理的遠隔・近接(ドライさ・ウェットさ)を、物理的な遠隔・近接状態実現への欲求・動機付けと捉えることによって、対人関係上のドライさ(疎遠になる)・ウェットさ(親密になる)と、物理空間上でのドライさ(遠ざかる)・ウェットさ(近づく)とを互いに結びつけることができる。

つまり、自由に放任された(自由行動を許可された、自主判断、自由意思による行動が可能な)状態では、対人関係的に疎遠なドライな関係にある人は、そのままでは物理的に近づこうとしないし、心理的に親密なウェットな関係にある人は、自ずと互いに物理的に近づき、くっつき、一体化するということになる。

物理的な遠隔・近接は、それぞれ皮膚感覚に、非接触、離反によるドライさ、接触、密着によるウェットさを与える。

以上より、対人関係上の遠隔(ドライさ)・近接(ウェットさ)は、人々に自由意思による行動を許可した条件下では互いの物理的な遠隔(ドライさ)・近接(ウェットさ)をもたらし、それが皮膚に対して離れた(ドライ)、接触し密着した(ウェット)という感覚を与える、といった相互連関があることが分かる。一見互いに無関係な、対人関係のドライ・ウェットさと、皮膚感覚のドライ・ウェットさとは、単なる比喩としての関係ではなく、実はこのような形で密接につながっているのである。


(c)2005 大塚いわお

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