ドライ化する日本
-「消極的・自閉的ドライ」性格の拡大と社会の「セミ・ドライ」化-

2005.05-2005.06 大塚いわお


[要約]

現代の日本社会では、「消極的、自閉的ドライ」とでも称すべき、他人に干渉しない、他人との付き合いを避ける、自分の中に閉じこもる対人関係が増えている。

これは、従来ウェット一辺倒だった日本社会を、日本国憲法の導入等でドライ化しようと試みた結果、生じたものと言える。

日本人は、ウェットな相互干渉・監視の対人関係の網の目から自由になった心地よさ、快適さを楽しむ一方、他人との一体感の欠如に物足りないものを感じるという矛盾した心理を持っているのが現状である。


ドライな性格の持ち主には、2通りあると考えられる。

一つは、「積極的、自己主張的ドライ」とでも称すべきもので、個人がバラバラに自発的に動きながら、勝手な自己主張をして、互いにぶつかり合うタイプである。

もう一つは、「消極的、自閉的ドライ」とでも称すべきもので、他人に干渉しない、他人との付き合いを避ける、自分の中に閉じこもるというものである。

積極的、自己主張的ドライは、欧米社会に見られるものであり、一方、消極的、自閉的ドライは、最近の日本人に増えているタイプと考えられる。

最近の日本人(若年層)の「ドライ・ウェット性格診断」への回答傾向についてのリンクです。


消極的、自閉的ドライは、従来の、相互干渉的で、煩わしくて、プライバシーがない、ウェットな付き合いに対するアンチテーゼであり、他人との付き合いを切って自分の中に閉じこもる形で、周囲からの自立と自我の確立を遂げようとしていると考えられる。

こうした消極的・自閉的ドライは、戦後の日本が、精神的に、ドライな欧米に追いつこう、欧米人の個人主義や自由主義、プライバシー重視を模倣しようとした結果、生じたものと考えることもできる。

戦後の日本は、主にアメリカの手によって作られた、個人の尊重、表現・結社等の自由の確保、プライバシーの尊重といった内容をうたい文句にしたドライな性格を持つ「日本国憲法」の導入により、今までウェットだった社会全体をドライ化する試みを行ってきたと言える。その過程で、「望ましい価値」=「ドライ」という見方が日本人全体に浸透した。

最近の日本人(若年層)の、「ドライ・ウェットのどちらが望ましいか」という質問への回答傾向についてのリンクです。


日本社会のドライ化の試みは、最初は、戦前の特高警察や隣組に代表されるような、相互監視とプライバシー干渉の網の目を断ち切るところから始まった。その結果、各自が、網の目から切り離されて自閉的に各自の枠内に閉じこもることで、個人の周囲からの自立を確保することになった。

そのように、ドライ化したと言っても、単に、ウェットな対人関係の網の目を切って各自の枠内に閉じこもっただけなので、見かけはドライだが、心のコアの部分はウェットなままである。そのため、人付き合いをすると、たちまちウェットな人間関係が再開してしまい、煩わしく、厄介なので、なるべく人付き合いが発生しないように、避けようとすることになり、その点、人間関係の構築が苦手な人が(特に若者に)増えた。

また、心の奥底ではウェットで、他人との触れ合い、一体感を望む心根が残ったままなので、それが、煩わしい人付き合いを避けようとするドライな行き方と矛盾、葛藤することになり、精神の分裂を来す危険性が増えた。

例えば、生まれつき社会のドライ化の波の中にいた日本の30、40代の男性女性が結婚しないのは、結婚することで、煩わしい親戚付き合いが増えたり、夫婦生活を行う中で、各自の独立やプライバシーが損なわれることが怖いと各自が考えているというのもあるのではないか。要は、ウェットな相互監視、プライバシー干渉のネットワークが復活することが怖いのである。

社会のドライ化が占領下の日本政府上層部による、上からの半強制的で権威主義的なウェットな動機によるものだったにせよ、それを受け入れた日本人は、半分ドライ化した社会が、それなりに心地よいことに気づき、社会のドライさを守って行こうと考えるようになったのではないか。現代日本人は、余計な相互干渉がなく、自由があることの尊さを、それなりに楽しんでいると考えられる。

しかし、一方、心のコアの部分では、ウェットさが残ったままである。要は、社会がドライ化したといっても、各自の心の中が完全にドライ化した訳ではなく、単に、ウェットだった社会において人々を束縛してきた、相互監視、プライバシー干渉の人間関係の網の目が切れて、個人がバラバラに切り離されただけであり、各個人の心の中には、従来の母性的なウェットな相互一体感を求める欲求が、心のコアの部分に残っている。その点、日本社会は、欧米のように完全にドライ化したのではなく、「セミ・ドライ化」(半分だけドライ化)に止まっていると考えられる。

そのため、対人関係を再度構築すると、また、従来のウェットなややこしい対人関係が復活してしまう。そのため、現代の日本人は、対人関係構築に対して積極的になれず、かといって、一人でいるのは寂しい、孤独だ、他人と一体感を持ちたいという、相反する心情に葛藤する日々を送っているのだと考えられる。

なお、日本社会のドライ化には、従来の、母親と子供が一緒に寝る母子密着型の育児から、ベビーベッドの導入による、母子間に隙間の空いた育児に移ったことも大きいのではないかと考えられる。要するに、ベッドに母親から離して寝かされるようになることで、母親との間の一体感が以前ほどなくなり、大きく育った後も、母親を含めた他人との間に多少距離を置いてドライに付き合うことに、以前ほど抵抗がなくなったのではないか。

もっとも、欧米のように夫婦とは別の個室に子供を寝かせて、子供に完全自立を促すという完全ドライ化を推進するところまでは極端化しておらず、その点でも、日本の育児については、「セミ・ドライ化」という表現がふさわしいと考えられる。



2005.05-2005.06 大塚いわお

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