通信の空間連結機能と社会の変化

[目次]

1.はじめに(空間連結機能)

2.地縁(地域性・地方性)の減少

3.人口分布の均等化

4.任意の地点の等価化と「位置自由」

5.任意の地点の普遍化

6.都心(中心地)の遍在化

7.国家の遍在化

8.居住・勤務地の最適化

9.生活の不動化

10.おわりに(通信の限界と交通の必要性)



1.はじめに(空間連結機能)

従来の通信と社会との関わりに関する議論は、

(1)「情報化社会」論、すなわち、通信回線を用いて何を伝えるか、という通信回線上を流れる情報(伝達内容)の面に重きを置いたもの。それは、通信ネットワーク上を流れる情報量の拡大、多様化を指摘するものであり、そこでは、通信回線上を流れる「情報」そのものに視点が置かれている(〔吉井1996〕など)。

(2) 「放送・通信メディア」論、すなわち、通信回線の両端にあって、ユーザーとのインタフェースとなる放送・通信機器(電話機、テレビなど)の使われかたの面に重きを置いたもの(〔吉見他1992〕など)。

(3)「社会的コミュニケーション」論、すなわち、通信を用いて図られる人と人とのコミュニケーョンのあり方の面に重きを置いたもの(パソコン通信によって形成されるネットワーク・コミュニティについての研究など)(〔池田1997〕など)。

が主流であった。

本論は、以上の観点とは異なり、通信の本質が、互いに離れ離れの地理的空間同士の結合にあるという観点から、通信の高度化に伴う社会のあり方の変化をまとめたものである。

本論では、通信ネットワーク上を流れる情報の中身については特に扱わない。通信回線上をリアルタイムで流れる情報の行き来が、異なる空間同士を結びつけ、距離感をなくすという事実に視点を置く。互いに、通信回線を複合的に接続させることにより、複数の人々の間が同時に距離ゼロに等しい状態で結合される。これが通信の持つ機能の重要な側面である、と考える。

通信は、互いに離れた物理的・地理的空間同士を接続・結合する機能、言い換えれば「空間連結機能」とでも呼ぶべき機能を持っている。つまり、通信は、互いにどんな遠距離にいても、いったんつながると、その距離を全く感じさせない。すなわち、物理的には全く離れた2地点間を、あたかも相互にくっついた同一の地点にいるかのように、感じさせることができる。

異なる2地点同士の結合は、それぞれの地点が持つ固有の情報を充分な量だけ互いに相手の地点へと回線を通して送り届けることによって生じる。通信の持つ空間連結機能の充実と情報化の進展とは深く結びついている。ただし今までの通信に関する論議においては、回線の中を流れる情報の内容や量にばかりスポットが当たり、空間連結の機能については関心が持たれなかったきらいがある。

通信の「空間連結機能」は、例えば電話によって確かめることができる。つながると、どんな離れた場所の音声でも、あたかもすぐそば(自分の耳元)から発生しているかのように聞くことができる〔Gumpert 1987〕。あるいは、テレビ放送の中継において、中継先の場所(例えばアメリカ)と、中継を受ける場所(例えば日本)とが、視聴覚の範囲内で相互につながる(各々が互いに相手の場所に直に面接しているかの如き感覚を持つことにより、空間同士を接続し、各々の空間を互いに共有しあう)ことで確かめることができる。

インターネットやパソコン通信を用いた電子メールにおいても、一方で執筆された内容が、時間や距離を感じさせることなく瞬時に相手側に到達することから、あたかも隣にいる人から手渡しでメモをもらうのと同じ感覚でメールの内容を取得することができ、通信の持つ空間連結機能を裏付けていると言える。

本論では、個人個人が置かれた距離に関係なくリアルタイムで相互につながるのが通信の特性であり、人々の間相互の瞬時の接続の広がりが世界中へと拡大するのが次世代通信社会である、と捉える。


2.地縁(地域性・地方性)の減少

通信は、異なる地理的空間としての離れた地域同士を一つに結び付ける機能を持つ。

ネットワークに接続された端末のどこからも、端末がたとえ地理的にどんなに辺鄙なところにあるかには関係なく、あたかも「等しく距離ゼロ」であるかのように、他の端末と瞬時に接続される。通信の場合は、距離的にいくら離れていても接続感覚がほとんど同じであり(例えば電話でダイヤルしてから相手につながるまで待たされる時間の長さは市内通話と市外通話・国際通話とでほとんど変わらず、ほぼ瞬時である)、人間の心理にはほとんど距離が影響を与えない。距離的にいくら離れていても、相手がすぐそばにいるように感じる。

どの地点・地域にいようが、いったん通信によって結合されてしまえば、どこも同一の距離ゼロに近い感覚で結ばれるので関係ないことになる。その意味で、地域という概念自体が、意味を持たなくなる。言い換えれば、通信は、脱地域・脱地縁機能を持っている、と言える。通信は、地域への帰属意識を減少させる効果を持つといえる。

通信が高度に発達すると、どの地域に住んでいるか、ないし勤めているかは、あまり意味を持たなくなる。都市に住んでいようが、農村に住んでいようが、通信で結ばれてしまえば、地理的空間の相違を超えて、格差なく、相互の空間同士を接続・共有することになり、双方が対等の立場に立つことができる。したがって、従来の都市/農村、都心/郊外の差がなくなる。

言い換えれば、今までは、人々の結びつきが地理に囚われてきたのが、今後は、通信による地理を超えた結びつき(地理的空間の超越)へと変化が起きる、と言える。

従って、コミュニティ生成のあり方は、従来の交通(徒歩、鉄道、自動車など)に頼った空間制約型のコミュニティ生成(互いに関連しあった施設同士(駅、市役所、郵便局など)を距離的に近づける、一極集中型を取る)から、通信を考慮に入れた空間超越型のコミュニティ生成(互いに関連しあった施設同士を高速で太い通信回線で結べば、地理的制約は超越される、広域分散などいかなる自由な形をも取りうる)へと、移行していくと考えられる。

また、人間関係が従来の地域内完結型から、地域外開放型へと変化するのに伴い、狭隘な「おらが村」「おらが町」といった一定区域内に限定された地域意識が解消されて、よりグローバルな全国~全世界を目指した脱地域意識が台頭してくると考えられる。言い換えれば、思考が一定地域に限定された(「地元」意識が強く、排他的な「地元」への利益誘導に走る視野の狭い)現在の世代から、思考が地域性から解放された、広域通信を指向する(グローバルな世界の利益を考える視野の広い)次の世代へとバトンタッチが起きる、と考えられる。

補足)電話とコミュニティ作り

現在の電話による人と人とのつながりは、1対1が普通であり、(パソコン通信やインターネットのように)多対多には対応していない。電話は、複数の人々の間で同時に共同で何かをするには向いていない。従って、電話は、〔吉見1993〕の指摘にもかかわらず、地域を越えたコミュニティ作りにさほど貢献してこなかったと見るのが妥当ではないか?同じ通信回線を用いるのであれば、多対多のコミュニケーションが可能な、例えばインターネットのメーリングリストなどの方がずっと、コミュニティ作りに貢献しやすいはずである。

補足)通話料金体系について

パソコン通信、インターネットでは、いったん最寄りのアクセスポイントにつながれば、日本中~世界中の全地域へ同一料金でつながる。パソコン通信・インターネットユーザーは、通信の持つ地理的空間超越の恩恵を一番よく受けているといえる。

これに対して、既存の電話(携帯電話を除く)は距離にしばられている。すなわち通話距離が長くなるに従って料金が高くなる。その結果、近距離同士の接続が促進され、遠距離同士の接続は敬遠される。これでは通信がせっかく持っている地理的空間の超越機能が生かされない。これは地域性の残存につながっている。


3.人口分布の均等化

通信が高度に発達した地域における人々の居住は、互いに近距離に居住しなくても、視聴覚全ての面で、気軽に遠隔地の相手と出会えるため、距離の束縛から解き放たれて、従来のように、一箇所に密集した形から、アトランダムに分散可能となる。したがって、通信の発達は、過密地域における人口の分散化に役立つ。

あるいは、通信は、あらゆる空間的隔絶を一瞬のうちの相互接続により解消するので、地理的に遠く隔絶された過疎地域の活性化に役立つ(ただし、あまり外界と隔絶された地点は物流の困難さゆえ無理かも知れない)。今まで過疎地の産業といえば、農林業が主であった。しかし通信の発達により、農業以外にも、ホワイトカラー(従来のオフィスワーカー)、遠隔操作による製造やソフトウェア製造が可能となり、移住してくる人々が増えるはずである。この点で、通信の発達は、過疎地の振興(収入を得る場の生成、産業の偏り是正など)に役立つと言える。

結局、通信の発達は、地理的に人口分布が偏った状態から、まんべんなく均等に分布する状態へ移行するのを助けると言える。


4.任意の地点の等価化と「位置自由」

どの地点にいようが、いったん通信によって結合されてしまえば、どこも他の任意の地点と同一の距離ゼロに近い感覚で結ばれることになるということは、通信があらゆる地点の等価性(他者と相互作用を行うための条件面での同等性)をもたらすことを意味する。任意の地点の他の地点に対して持つ関係が同一化するということは、どの地点にいようと同じであり、自由であることを意味する。この意味で、通信は、人々の存在する地理的位置からの解放(自由)をもたらす。この現象は、M.Weberの「価値自由」の概念(社会科学が認識の客観性を保つためには、価値判断から自由でなければならない)にならって、「位置自由」(自分の今いる地理的位置付けから自由となる)とでも名付けることができるであろう。

「位置自由」の概念は、例えば、携帯電話をかける人が、自分の今いる地点や相手のいる地点の地名を特に知らなくても、他者と会話のやりとりをすることができるところに現れている。これに対して、郵便による手紙による会話のやりとりだと、常に自分と相手の住所(自分たちの今いる地点がどこであるかの情報)を意識して、はがきや封筒に記入しなければならないので、「位置自由」ではない。自分の今いる地点が特定されなかったら、郵便が届かないからである。

携帯電話の普及により、今自分がどの地点にいるかを特に意識することなく、あらゆる地点で同じ感覚で他の任意の地点と結合されることができる傾向(感覚面での「位置自由」)は、さらに強まったといえる。あるいは、通信にかかる費用面においても、パソコン通信やインターネットのように、最寄りの(市内の)アクセスポイントにつなぎさえすれば、後は全国~全世界に同一料金(市内通話料金+プロバイダ接続料金)で接続できることは、やはり地点を選ばずに、ないし今いる地点の拘束を離れて、自由に他の任意の地点と費用の面で同一条件で結合関係を持つことができること(費用面での「位置自由」)を意味する。


5.任意の地点の普遍化

通信の発達は、ある地点から発せられる情報に、全国~全世界の任意の地点から、同時にアクセス可能とする。例えば、インターネットの地域プロバイダーにその地域の利用者が登録したWWWホームページ情報は、全世界のあらゆるところから、瞬時にアクセス可能である。

以上のことを裏返して考えると、通信の高度化は、全国(全世界)のあらゆる地点固有の情報が、全国(全世界)に向けて一瞬のうちに広がる可能性を持つこと(任意の地点の普遍化)を促す。その点で、従来は、一地方・地域に限定されていた文化の全国レベルでの普遍化が簡単に起きるようになり、今まで各地方限定であった文化同士が出会って互いに競争・淘汰し合うようになると考えられる。

さらに、次の段階になると、文化を生み出す個人が、従来の地方・地域による受容という1次フィルタを通さずに、直接全国に向かって、自分の生み出した文化・技能..といったものを一発で広めるようになる。個人毎のインターネットのWWWホームページによる地方・国籍を問わない情報発信は、まさにその好例と考えられる。この意味では、情報の地方性というのは消滅の方向に向かうと考えられる。


6.都心(中心地)の遍在化

通信が発達した状態では、以下に述べるように「中心地(都心)の遍在化(どの地点もが瞬時に中心地(都心)となりうる状態)」とでも言うような現象が起こると考えられる。

高度な通信網がはりめぐらされた状態においては、まず、どこにいても今まで地理的に中央であった地点に即時に直接アクセス可能である。この場合、アクセスした時点で中央と直接接続されることにより、アクセス元の地点はアクセス先の中央と、中心性(都心性)という点で同格となり、その結果、アクセス元の地点全てが中心地化することになる。

このように中心地(都心)を地理的に一箇所に集中させたままでも、高速通信回線を用いて中心地までのアクセスにかかる時間をゼロに近づけることにより、どの地点からも等しい時間でアクセスできることになり、中心地(都心)の遍在化を実現できる。ホスト機能が一極集中したパソコン通信で地理的空間が超えられるのと同様である。ただし、中心地(都心)以外の全地域に高速回線を引きまわす必要がある点では、中心地(都心)を地理的に分散化させた場合と相違がなく、メリットはない。むしろセキュリティ面でデメリットが強い(地理的に一極集中した中心地(都心)がダメージを受けると、他全部が駄目になる)。

そこで、新たに考えられるのが、中心地(都心)を、地理的に分散化させつつ、その間を通信回線で相互に結ぶようにする結果を生み出すことである。すなわち、通信回線により距離感ゼロで結ばれた複数の地点同士が、そことつながった通信回線を媒介して、さらに距離感ゼロで、他の複数の地点と結ばれていく、そこに、距離的隔絶感のない無数の地点同士を対等化・平等視する感覚が生まれる。その結果、どこが中央でどこが地方か分からなくなり、どの地点もが同等に中心たりうる程度(中心地の遍在性)が高まる。任意の地点が、回線で結ばれた他の全ての地点と瞬時に接続される可能性を持つことにより、即時に中央(中心地、都心)となりうる。

これにより、中心地(都心)機能のセキュリティ上の問題は解決される。どの地点でも瞬時に中枢機能を代行できるため、震災や戦争などの影響で中央政府や企業本社の機能がまひすることを防ぐ。

いずれにせよ、通信を利用した中心地の遍在化は、中央と地方との地域(空間)的融合をもたらす。ないし中央対地方格差や対立をなくす。あるいは、地方と地方の間格差をなくす。どの地域もが地理的ハンディを感じずに対等の立場に立てる。

通信の高度化が進めば、従来地理的な中心地(都心)に置かれてきたさまざまな機関が地理的に街の中心にある必要はなくなる。通信の持つ空間超越機能のおかげであらゆる地点が(そこへの即時のアクセスの可能性を確保することにより)中央たりうるので、各機関を、立地条件を気にせず、好きな場所に構築することができる(実際には、物流の制約をある程度考慮する必要があるが)。現に、研究機関に関しては、必ずしも交通が便利とは言えないところに立地していても、高速通信回線で国内~世界中と結ぶことにより、地理的ハンディを感じさせない研究成果を出すことが出来ているように思われる。

今まで地縁における中心地(都心)に位置してきた公的・私的機関の勤務者が、遠く離れたバラバラなところに分散して、皆互いの間を高速通信回線で結んでコミュニケーションを取れば、機関の実体は、各勤務者のいる地点に分散する形で成立することで、機関自体が所有する建物などを持たなくなってもよくなる。そういう意味で、官公庁・企業体といった機関は、有形に存在する必要すらない。

結局、通信の発達は、あまねく異なる地点の中心性(都心である度合い)の等値化を促す。どの地点にいても、あたかも互いにすぐそば(という等距離)にいるかのように振る舞える通信の特性は、その高度化(マルチメディア化など)により、従来の中央対地方という地域対立・地域階層化の構図を解消する。


7.国家の遍在化

中心地の遍在化は、全国レベルで考えれば、首都機能(国家機能)の多核分散(遍在)化を意味する。国家の中心が、現在のように特定の首都にのみ集中して存在する状態から、国中どこからもあたかも等距離にある感覚で、国民の前に現れることになる。

通信の高度化が進めば、社会の中心に位置すべき行政機関(官庁)が、地理的にその国の中央部と考えられる場所に集中して建設されなくてもよくなる。異なる地域にバラバラに設置して、その間を高速回線で結べば、地理的空間を超えた統一体としての中央政府が出来上がる。首都機能を果たすのは一人一人の人間(建物ではない)のだから、その人間同士が回線でつながれていれば、人がどこにいようと首都としての機能は果たせる。

国家機能の通信を用いた分散は、地方と中央との対等化を促す。地方にいても今までの中央にいるのと同じ生活上のメリットを享受できる(その逆もあり)。地方と中央との境界があいまいになり、地方自治(とその裏返しの中央集権)の概念がなくなる。

地方と中央との区別がなくなる(「地方性」が消滅する、地方と中央とが同等の位置に立つ)ことは、従来一定地域に限定された政策を代表してきた地方自治体の存在意義が薄れることを意味する。それはどの地域からも等距離感覚で他の任意の地域へとアクセスできるようになることで、政策の地域限定ということの意義が薄れるからである。将来的には、現在の、思考が地域に限定された、「地元」利益誘導に熱心な世代から、地域の束縛から解放された広域ネットワーク世代へと移行が起こることにより、様々な異なる価値観によって立つ、構成員同士が各々同一の価値で結ばれた、地域や地方を超えた広域政策集団が自発的に発生・並立して、従来の議員出身地の各地方の利害に囚われた政党のあり方をくつがえすことになると考えられる。

国家の遍在化により、従来の首都機能の地理的な一極集中を前提とした遷都論は根本的に見直しを迫られることになろう。なぜならば、通信による地理的空間の超越により、広域分散型の首都機能が実現可能となるからである。首都機能の分散には交通よりも通信を使った方が効果的である。離れた距離でも一瞬にしてつながるからである。通信を活用することにより、より離れた地点へと機能を分散して置くことが可能となる。


8.居住・勤務地の最適化

通信が発達すると、個人の最適地居住ないし勤務がサポートされるようになる。

どの地点もが即時に中心地になりうるということは、通信インフラの立場から見た場合、どの地点へ住んでも、ほぼ同一の高度な通信環境(インターネットなど)が得られることを示す。どの地点へ住んでも、他の任意の地点に対して、あたかも等距離(距離ゼロ)にあるようにアクセスできるので、任意の地点を選んでそこに居住・勤務して構わないことになる。これは、言い換えるなら、通信が発達した状態では、人々は、自分にとって最適と考えられる地理的位置で生活し続けることができるようになることを示す。

人々は、現在のように、例えば通勤時間の関係で大都市近郊に住むといった必要がなくなる。転勤があっても、変更のあった勤務先に通信先を変更するだけであり、自らは居住・勤務地を変える必要がない。一度、気に入った地点に住居を構えたら、ずっとそこに住みつづけることができる。どこに住むかということについての基準が、従来のように例えば通勤に便利であるといった点からは大きく変わり、従来の大都市圏から離れた小さな町であっても居住者福祉がより充実していればそこへの居住を選択する人が大勢出てくるといった人口移動の事態が起きることが考えられる。

あるいは、モバイル技術の利用により、地理的に移動しながらでも、絶えず同一の高度な通信環境を維持することができるため、移動中も、定住しているのと遜色ない生活ができるようになると考えられる。寒ければ暖かいところ、暑ければ涼しいところなどへと、渡り鳥のように自由に季節移動して勤務することが可能となる。モバイル用オフィスの居住形態としては、キャンピングカーやモバイルホ(ス)テル(移動勤務者用の集合宿舎)などが考えられる。


9.生活の不動化

通信が発達すると、動態的社会(人が地理的空間上を動く社会)から、静態的社会(人が地理的空間内の一箇所にじっとして動かない社会)への移行が起きることが予想さる。

通信中心の社会が到来すると、人々は、通信端末の前に座ったまま、長時間動かなくなることが予想される(一日中、テレビの前に座っているのと同じ状態)。同一場所(例えばパソコンの置かれた机の前)に留まったままで、通信端末を操ってさまざまな地点へと瞬時に何の苦労もなく次々と接続し渡り歩くことができるからである(ネットサーフィンといわれる現象がこれである)。

身体がじっとしている状態が長く続く状態は、決して病理的現象ではない。従来でも、電車、自動車では、空間的には移動するが、中にいる人たちは座席にじっとして座っている(か立ったままで移動しない)。乗り物自体は移動しても、中にいる本人がじっとして動かない点では通信と同じと言える。ホワイトカラー(一般事務職)について言えば勤務中も机に座って動かないことが多い。したがって、人の身体が動かない状態は現状でも十分存在し、通信中心の社会が到来して人が動かなくなると言っても、生活パターンが全く変化する訳ではない(従って、通信中心の社会への移行はスムーズに進むはずである)が、生活上の「不動性」は、交通による移動を伴わない分、現在に比べてより徹底される。


10.おわりに(通信の限界と交通の必要性)

将来の通信の発展を見極めるには、従来の交通を用いて行われるコミュニケーションで、何が通信で代替可能で、何がそうでないかを見極める必要がある。

この問題を解決するには、従来行われてきた、通信による交通の代替について考察する(例えば、〔鈴木1992〕)のではなく、逆に、どういう場合に、人が通信を使わないで、交通を用いて(自らの物理的身体を空間移動させて)コミュニケーションしようとするか、のリストアップが必要となる。

その際、通信回線利用料金の高さなど経済的要因には目をつむるとする(通信が発展すればいずれクリアされる問題であるから)。

現時点で考えられる通信だけでは不十分な場合としては、

(1) 会合における電子部品のような物的資料の手渡しなど、人と人との出会いが物資の移動(物流)を同時に伴う場合、

(2) 宴会や食事のように、現代の通信がサポートする視聴覚以外の、触覚・嗅覚などの共有が必要な場合が考えられる。

以上の問題と関連することであるが、高度通信社会への対応は、ホワイトカラー(事務員)では進み、ブルーカラー(工員)では遅れることが考えられる。ホワイトカラーは、オフィスワーク中心であり、作成する資料はOA化により電子化して通信回線に乗せて自由に流通させることができるので、通信の恩恵を受けることができるのに対して、ブルーカラー(例えば自動車整備工)は、具体的なモノの取り扱いが中心であり、取り扱う物資や物資を取り扱うための機械を通信回線に乗せられないからである。ブルーカラーは、通信が高度化してもそのままでは従来通り現場(物資や機械がある地点)まで交通機関を使って自ら足を運ばなければならない。

ブルーカラーが通信の恩恵をこうむるには、自分から離れたところにある機械や物資を、オンラインでリモートコントロールすることができるようになる必要があり、そのためには、例えば通信衛星ロボットの遠隔操作のような仕組みが必要となる。なお、ブルーカラーでもソフトウェア製造者は例外的に、通信の恩恵を受けることができる。生産手段や製品をオンラインで獲得する(例えば遠隔地にあるワークステーションに電話回線を通じてリモートログインしてプログラムを作成する)・流通させる(例えばインターネットやパソコン通信でプログラムを配付する)ことができるからである。


〔参考文献〕

〔Gumpert 1987〕Gumpert,G "Talking Tombstones and Other Tales of the Media Age" NewYork, Oxford University Press 1987(石丸正訳 「メディアの時代」 新潮社 1990)

〔池田1997〕池田謙一(編)「ネットワークコミュニティ」 東京大学出版会 1997

〔鈴木1992〕鈴木春男「交通と通信の代替性」(長山、矢守(編)「空間移動の心理学」 福村出版 1992)

〔Toffler 1980〕Toffler,A. "The Third Wave" William Morrow & Company,Inc. 1980(徳岡孝夫監訳「第三の波」 中央公論社1982)

〔吉井1996〕吉井博明「情報化と現代社会」 北樹出版 1996

〔吉見他1992〕吉見俊哉、若林幹夫、水越伸「メディアとしての電話」 弘文堂 1992

〔吉見1993〕吉見俊哉「回線の中のコミュニティ」(蓮見、奥田(編)「21世紀のネオ・コミュニティ」 東京大学出版会 1993)



(追記2008.08)

上記の文章を書いてから10年経過したが、日本社会の現実は、上記で書いた通りにはならず、今まで通りか、むしろ逆行するものとなっているように思われる。

その原因として考えられることを以下にまとめた。


企業等で働く社員が、物理的に一カ所に集合せずに、バラバラに好きな場所で自由に移動して仕事ができるようになる条件は、光インターネットの普及とかで、以前に比べて格段に条件は整ってきていると個人的には思う。

しかし、情報漏洩対策やセキュリティの問題で、企業が、社員がオフィス外で自由に働くのを好まないというのがある。例えば、新幹線でPC開いて作業していたら、隣の人に画面見られて、企業秘密が漏れるとかいうものである。

もう一つは、労働時間のカウントの問題だろうか。会社側が労働時間をカウントするためには、以前から行われている、社員が会社のオフィスに一定時刻までに出勤し、そこで働いて、退社打刻をするように仕向けるというのが一番勤務時間の管理がやりやすいというのがあるのだろう。企業が給与を労働時間ベースで支払う慣行が続く以上、この問題はなくならないと思われる。

後は、社員がちゃんと仕事をしているか見張るのが、社員をオフィスに一カ所に集めてリアルタイムで直接目で監視するのが一番手っとり早いと考えられているのもあるかも知れない。この辺、テレビ会議で相手を監視するのもあまり監視精度とか変わりないんではないかという気も個人的にするが、企業側が、社員に直接物理的に指導、制裁を加えられる可能性を取っておきたいのかなという気もする。

さらに、これは、日本とか東アジアの集団行動を好む社会に特有なのかも知れないが、社員の個人行動を嫌がり、なるべく団体で、みんな一緒にいるのを好むという風潮があるように思われる。オフィスに揃って同じ時刻に集合し、同じ場所で同じように働き、同じ時刻に揃って昼食をとり、揃って残業し、みたいなのをよしとして、各自が物理的にバラバラな場所で自由に作業をするのを、望ましくないという心情がある程度存在するのも、原因のような気がする。

もう一つ問題となるのが、会社に出勤しないで働く社員の自宅とかの居住兼作業スペースの創出、維持に関わる費用、通信費用を会社側がどうやって算出し負担するかという問題があると思われる。この算出基準が今のところ、どうもはっきりしていないというのがあるのではないだろうか?場合によっては、社員が自宅にオフィスの場所を確保するため、勤務する部屋を用意、造成するために自宅を増改築するということも考えられるし、その費用は誰がいくらまで負担するかとかいう問題がつきまとう。そのため、企業側が、居住・勤務地最適化の実現に二の足を踏んでいるということもあると思われる。

しかし、とりあえず、ワーカーが勤務する部屋を造成しないと、在宅勤務は進まない。

この問題を解決するために、組み立て、分解可能で、既存の家屋の中にカプセルとして組み込み可能な、ユニット風呂みたいな、ユニット勤務室、ユニットオフィスルームを用意する、レンタルするという方法がある。

あるいは、そうしたワークルーム、オフィスルームを、郊外の団地やマンション、一戸建て住宅に最初から、組み込んで造成するというのも考えられる。

もしくは、小さな個人用のワンルームで簡易住宅兼用のオフィスルームを、インターネット喫茶の個室みたいに、郊外の住宅近辺にたくさん造成し、誰でも手軽にその都度借りることができるようにする、という手も考えられる。



(C)1998.2 大塚 いわお
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