○社会の外在は本当か?

社会は、個々人を超えて、客観的に外在するという見方がある。一方、社会は、社会を構成する個々人の心の中、神経系の中のみにあり、外在しないとする見方もある。

社会が外在することの根拠として、例えば、会社や官庁の組織であれば、「組織図」というのがあり、それが個々人を外部から拘束しているという説明がされてきた。しかし、実際のところ、その組織図は、成員が組織図の内容を頭の中に十分たたき込んで学習すると共に、組織階層で下位の者は、上位者の指示に従う必要があるのだということを予め了解していることが前提となる。組織図の内容を頭の中によく記憶していなかったり、下位者は上位者に従うという組織の論理が頭の中に入っていない不勉強な成員は、組織図の指示系統の通りに動くことはあまりない。その場合、組織図は有効に機能しているとは言えず、組織図はその成員にとっては外在しないに等しい。

要は、組織図が機能するには、その内容が、個々の成員の頭の中にしっかりと学習されている必要がある。そういう意味で、社会の外在化、成員の外部からの拘束が有効になるには、まず成員による内面化が必須であり、その際、どこに内面化されるかと言えば、個々人の神経系、頭の中に刷り込まれるのであるから、結局、この問題を正しく理解するには、社会学が、個々人の心理を扱うことが必須となる。そういう意味では、一見客観的に存在するかに見える組織図も、実際には、個々の成員の神経系の中、頭の中にしか存在しないと言える。紙に書かれた組織図自体が効力を持つのではなく、成員が組織図を目視して、その内容を頭の中に叩き込む、神経系の中に内面化することで初めて効力を持つのである。組織図の最新の内容が、まだどの成員の頭の中にも十分に入っていない状態で、その組織図の紙がどこかの書類と一緒になって埋もれて閲覧不可能になってしまったら、その組織図は、確かに外在的に存在し続けてはいるものの、各成員にとっては無効である。


全体社会像は、人間としての心理的な情報処理能力の限界により、一人で見ることは不可能である。その点、内面化している社会像は、個人毎に異なっているのが実情である。同じ日本人だと言っても、、芸能ニュースばかりに興味がある人や、外交問題に主に興味があってその他はどうでもいいやと考えている人などいろいろな人がいて、それぞれ見えている外部社会像が異なる。各人にとって、同じ社会が共通に「外在」しているという訳ではないし、同じ社会像を共有できている訳でもない。例えば、右翼と左翼とでは、自分の外部に広がる社会についての認識のあり方に相当ギャップがあるだろう。あるいは、個々人は、全体社会は見ることができず、部分社会しか見えない。個々人は、各々、自分の専門分野のみしか見えないのである。

なので、社会が外在すると言っても、その外在の仕方は、個々人の専門分野や立場によって異なる。そのため、同一社会が成員全員に同じ外在的制約を加えているとはとても言えない。強いて言うなら、戦前の日本のように、成員間の相互同調、一体化が強く、情報共有が強く推進された場合のみ、各成員にとってほぼ同一の社会が外在したことになるが、

この場合、同調指向の強さは、結局、個人の心理的傾向に帰するのであり、その際、なぜ皆が揃って同調指向が強かったかと言えば、人口の大半が稲作農耕に従事し、揃って村落共同体の中で、同じような、相互一体感を重んずる母性の影響力が強い生活をたまたましていたからに過ぎない。つまり、共通の文化ウィルスが、社会を構成する個々人の頭の中に、広範に行き渡った場合に、初めて、同一の社会像を、個々人は共有できることになる。その意味でも、ある統一された社会が、最初から個々人の外部に客観的に外在するとは言えず、一定の文化ウィルスが、個々人に共通に「内面化」されて初めて、おぼろげながら「共通の外在する社会像」が形成されるのである。


2005-2006 大塚いわお

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