○社会は個人に還元できる

社会は個人に還元できないとする創発性は、幻である。

ある一人の行為者にとって、社会とは、残りの人々の集合体である。それは、一人の意のままにならない、思い通りにならない、言うことを聞かない存在である。個々人の集合体であり、個人に還元できるが、個人では動かせないという点で、個人を超えた存在である。

個人は、各自、個別の事情を抱えており、自分に都合のよいことをしようとするが、それが他人には迷惑になっていることがある。

人間は、他人が周囲にいるときと、いないときとで異なる行動をしようとする。人間は、自分と同じことをしようとする人が周囲にいると、気が大きくなって、自己が拡大したような気になって、一人だけの時とは違うことをする。 人間は、周囲に、自分と同じ文化を共有する仲間が数人でもいると、気が大きくなって、一人ではできないことができる。
気が大きくなることは、一人では起きないので、「社会」のおかげという説明が、これまではなされてきた。 確かに、個人の心理は、一人でいる時と、周りにたくさん他人がいる時とでは異なる。周囲に他者がいる時は、他者との間にコミュニケーションや相互作用のためのブリッジが成立するためである。

これは、他者の援助があると思うから気が大きくなる。他者がいることによって初めて起きる、一人単独では起こらない心理があるのは確かである。これが、社会は、個人単独ベースでは説明できないことの論拠とされてきた。

しかし、これは、実際は、同類の相手・他者がいる時に起こる個人の心理にへと還元しうる。つまり、これは、「外部社会」がそのように仕向けていると言うよりは、もともと、人間各個人の神経系の中に、そのような、自分と同類が見つかったとき、協力者が増えたと感じて気が大きくなるという心理的機構が遺伝的に組み込まれているということだと考えるのがより々自然であろう。

生物個体の活動は、細胞レベルの活動の上に積み上がっているはずである。
社会は、個人の心理・生理とは別個に、個人を超えて独自に成立すると主張すること、社会を個々人の集合以上のものと捉えることは、生物個体の活動が、細胞活動に支配されずに、細胞活動とは別の次元で切り離されて行われている(生じている、決まる)と主張するのと同じである。つまり、生物の活動を、細胞レベルを無視して構築できると考えるのと同じである。これはナンセンスである。

これは、個人の顔が見えない社会学であり、一人一人の個人の力を軽視し、個々人の意思を無視した非人間的な学説である。

こうした考えとは別に、以下のような考え方も成り立つ。すなわち、社会は個人を超えて存在しない。社会は、個人の合計であり、個人に還元される。社会は、個々人の集合以上でも以下でもない、とするものである。つまり、個人が見える社会学であり、今後の社会学は、この方向で進むことで、今までにない、個人を尊重した新たな見地を得ることができる。

つまり、社会を、個人を超えた独自の存在として捉えるのではなく、個々人の集合体として捉える。


2005-2006 大塚いわお

ホームページに戻る