○なぜ、社会の把握において、個人を中心に据える必要があるか?

既存の、個人間の相互作用のみを扱う、社会学主義、従来の社会システム論の行き方では、個人の頭の中にあるコンテンツ(アイデアや行動様式のコレクション)を扱えないという問題があるからである。
行動様式、業務知識、ノウハウ、文化といったコンテンツ(内容、中身)は、個人の頭(心、神経系)の中にもともとあり(蓄積、コピーされており)、相互作用そのものの中にはないからである。社会の動きを分析する上で、個人の頭の中にある、社会の動きを決定するコンテンツを扱うには、個々人を分析の中心に据える必要がある。

業務を行う、社会を動かす、各種判断・決定を行う行為主体は個人であり、それゆえ、そうした個人の行動を分析の枠組みの中に捉えるには、個人の頭の中(神経系)を分析の中心に据える必要がある。
そういう点では、あくまでも個人の神経系あっての社会であり、社会だけでは、単なる個人間を結ぶブリッジの寄せ集めに過ぎない。

社会は、そのままでは、互いに行きたい方向、価値観がバラバラの複数個体の寄せ集めである。


社会を個人に還元できないとする、あるいは、個人間の相互作用のみを見て、個人そのものを見ない、従来の社会学的なやり方よりも、社会を個人に還元する、あるいは社会を、バラバラな個人の集合体と見る、粒子還元論的なやり方(要素還元アプローチ)の方が、文化、行動様式、環境適応ノウハウといった、個々人の頭の中にあるコンテンツの動態を扱える分、社会システムの動きをよりよく説明できるのではないか?


社会の捉え方にも2通りあって、従来のように、個人間の相互作用そのもののみを抜き出して捉える行き方と、個々人の頭の中のコンテンツをも社会の中に含める行き方とがある。筆者が望ましいと主張するのは、後者の、個々人の神経系を分析対象に含める行き方である。この行き方では、個人の心から心へと感染して広まる文化ウィルス(これは、人によってミームとか、イデオロギーとかいろいろ言い方がある)が扱えるという長所がある。

文化ウィルスは、講義、放送、口コミ等のコミュニケーションによって(社会素子の通路を通って)、ある個人から別の個々人の頭の中へと入り込み、個々人の神経回路の形を変える形で、頭の中に感染する。社会運動とか、ブームは、この文化ないし行動様式の心理感染が大規模に発生したものと捉えることができる。個々人は、感染すると、その新たに感染した行動様式を取らずにはいられなくなる。これが、文化ウィルスによる「病気」の発症である。

文化ウィルスの中身は、会社員であれば、業務ノウハウであったり、イベント情報だったりする。あるいは、人種差別イデオロギーであったり、高校の教室内であれば、微分積分の数学の知識だったりする。

文化感染と社会のドライ・ウェットさとの関連でいけば、相互の一体・密集感を重んじるウェットな社会ほど、文化ウィルス感染が流行しやすい。同一の文化が、多人数に一斉に感染する、一斉感染が起きる。


2005-2006 大塚いわお

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