エッチなことはいけないか?
-セックスと人間との関係についての考察-
2004.6-2005.10 大塚いわお
1.生命であることの証としてのエッチさ
人間は生物である以上、誰でもエッチで当たり前、自然である。エッチでない人はほとんどいない。
次世代の生命を残すには、エッチ好きであることが必須である。
セックスは、動物の交尾、植物の受粉と同じ、生命として自然であり、子供に対しても特に隠し立てする必要はない。むしろ、人間の本質がエッチであることを子供に隠すことがいけないことであると考えられる。
セックスを淫らであるとか、わいせつで不道徳ないけないことである、隠すべきことである、といったように罪悪感をもって語るのは、セックスによって次世代を作るという生命の本質に反した、自分自身が生命であることを否定するような誤った考え方である。
現在の日本では、人間がエッチであることは隠すべきことである、特に女性の場合、エッチであるのははしたないとされているが、それは間違いである。人は、子孫を残す必要がある以上、普遍的に男も女もエッチであり、エッチであることは当たり前のことであるから、そのことを隠す必要はないのである。というか、性欲がない方が、生物としてはむしろ異常である。
エッチについて、子供に隠し立てすべきではない。子供自身、自分がエッチであることはごく自然で当たり前のことであり、エッチであることに罪悪感を感じる必要は全くない、むしろ健康的なことなのだということを、子供に教える必要がある。そして、次世代を孕むのには、どうすればよいか、何を回避すべきか、十分な情報を、隠し立てせずにきちんと教えるべきなのである。
子供でも、セックス(子供作り)の仕組みがどうなっているか、仕組みを知ること自体は、生き物として自然のことであり、悪いことでは全くない。
現状みたいに、性交に必要な情報のほとんどを、アダルト雑誌やアダルトビデオから、大人に見つからないように陰でこそこそしながら得るというのは、不健康、不自然である。人間はセックスについて知る権利がある。大人から子供まで、きちんとした正確なセックスに関する情報を得る権利があり、それを実現する適切な性教育が不可欠である。
子供にセックスの情報を提供することの問題は、むしろ、セックスについての十分な知識がないと、養う環境や用意ができないのに、子供を産んでしまう恐れがあるということである。そのことについての対策の方が必要である。
日本のように、性器をモザイクで隠すというのは不自然である。「性器は卑猥だ」と言われるが、実際のところ、発情への刺激、引き金ととして、性器を出すのと、出さないのでは、さほどの差は見られないのではないか。筆者の体験でも、異性の性器は、見慣れない最初こそびっくりするものの、すぐ慣れて当たり前のものとなり、そのうち段々見飽きてくる。男性にとっては、むしろ、女性の喘ぎ声とかボディライン、肌のすべすべ感、柔らかさといったものの方が、よっぽど性的刺激が強いのではないか。
人間は、性器の仕組みとか、デフォルト、そのままでは知識がない。例えば、男性が初めて男性器を女性器に挿入するときに、最初、どこに挿入すればよいか分からず戸惑うという話をよく耳にする。このように人間が、具体的にどのような手続きを踏めばセックスができるか知らない(遺伝的に、性交の具体的手続きに関する情報が脳に書き込まれていない)ということは、次世代を作ることが必須の生物としては異例のことである。
セックスに対する世代間の正しい知識の伝達のためにも、子供の教育においては、何らかのタイミングで性器の実像をきちんと隠さずに見せる必要がある。
セックスについての具体的で客観的なデータを子供に示すことで、子供は、自分自身が、他の動物と同様・同列の、地球の地殻上を這いつくばって暮らす小さな生物の一種であり、両親のセックスによって生まれ、自らも、男性が女性の凹部に自分の凸部を挿入して(女性なら男性に挿入させて)セックス(交尾)して次世代の自分の子孫を作っていくように運命付けられていることについて、きちんとした理解と自覚を持つことが可能となる。
こうした自らを生物の一種として捉える姿勢は、セックスを下品なものとして見下したり、興味本位で扱おうとする従来の人々の考え方に変化を与え、セックスに興味を持つのも、セックスが好きなのも、実は生物としてごく自然であり、むしろ健全なことなんだ、生き物らしい素晴らしいことだという、意識変革をもたらすことになる。人々は、自分自身生き物であるという自覚を持つことで、地球上の他の生き物より以上でも以下でもない対等な存在であることが気づくことができる。
つまり、他生物に対して、(例えば欧米人みたいに)「人間は動物とは区別されるよりハイレベルの崇高な存在だ」という根拠のない優越感を持つことを防止し、謙虚な態度を持つこと(自ら自然の支配者と驕り高ぶって不必要に生態系を壊さないようにする)にもつながる。
人間にとって、セックスとは、次世代を残す形で生き続けようとする、生物、生命としての意思の現れであり、自らが生物、生命であることの何よりの証拠である。生命の躍動感(バイタリズム)を生み出す源泉となり、生物としての本性をさらけ出すまたとない機会となる。
自分の性器をまざまざと見て、「ああ、自分は、生き物の一種なんだな。こうした性器が付いていることは、自分の子孫をセックスで残そうとするためなんだな。自分は、犬や猫とかの動物と同類なんだな。あるいは、おしべ、めしべを持つ植物とも共通の生殖メカニズムを共有しているんだな。他の動物・植物とは種類が違えど、やっていることの本質は一緒だな。」と振り返るのもいいかも知れない。
生命である人間にとって、セックスは、人間をバイタルな存在たらしめる原動力であり、本質的なものである。セックスのことを淫らだとか下品だとか言って貶める言動、あるいは画像における性器塗りつぶしや局部モザイクといったように、セックスのことを必要以上に隠蔽しようとする行為は、人間の生命としての尊厳を貶め、人間のバイタルな本質を否定することにつながり、本来認められるべきではない。
近年は、避妊技術や、いわゆる「大人のオモチャ」の発達で、次世代の生命を残すというセックス本来の意義から自由になって、セックス時の強い快感そのものを心行くまで味わう人も増えている。
なぜ強い快感が味わえるのかについては、言うまでもなく、快感がないと、人間はセックスする気が起きず、子孫を残さなくなるため、子孫を残そうとする自動的な動機付けとして必要だからである。
セックスの存在理由の他に、避妊が失敗の危険を伴い、人工中絶がリスキーなこと、性病やHIV感染の恐れがあることを予めきちんと押さえて自覚していれば、「セックスを楽しむ」「セックスを極める」「セックスの達人になる」ことは何ら問題ないし、何よりも、パートナー(異性、配偶者)とのコミュニケーション、スキンシップの向上につながる。
「サルのように」セックスしても、それによって頭がバカになったとかいう話は聞かない。避妊を確実にできる、あるいは生まれてくる子供をきちんと養育できそうであれば、むしろ積極的に快感を楽しむためのセックスをした方が、ストレス解消にもつながりよいのではないか。
2.通常モードと発情モードとの棲み分け
一方、セックスのことを、通常の場面でおおっぴらに公表しすぎるのには問題があり、ある程度の節度が必要である。
人間のセックスに関する行動モードには、セックスのことが頭に特に浮かばない通常モードと、セックスをしたくて(性的欲求を満たしたくて)たまらない発情モードがある。
必要なのは、セックスから離れた冷静な考え事が可能な通常モードと、セックスで頭の中がいっぱいな発情モードとの混在の防止、上手な切り換えである。
通常モードと発情モードとは社会生活の上で明確に区切られ、互いに排他的な関係にある。通常モードと発情モードの混在は、人間心理の上で、あまり望ましくない、両者はきちんと分けるべきである。
例えば、仕事、学校などの仕事中や授業中といった通常モードにいる時に、セックスのこと(発情モードの話)をされると、気まずい思いをする。あるいは逆に、セックスに夢中になっているとき(発情モード中)に、仕事の話とか、コンピュータ論理の話をされると、明らかに場違いであり、白ける。
通常モードにいる時に、発情情報にいきなり触れると強い違和感、不快感を感じる。発情を促す情報は、通常モードでは、見えないところに隔離する必要が出てくる。
人間の心は、発情モードと通常モードとが明確に分かれていて、一方に他方が乱入すると、気分が悪い。まじめに仕事をしている最中にエッチ雑誌を見るといきなり気持ちが悪い。
これは、「わいせつ」といった言葉で表されるのであるが、より具体的にどういう感覚であるか心理学的な分析はあまりされていないように思われる。「わいせつさ」は、生暖かさ、ウェットさ、ベタベタした感じなどで表されるように思われるが、どういう感覚なのか、どういった言葉で表すのが適当かは別途詳しい調査分析が必要である。現状のように「わいせつ」「淫ら」の一言で済ますには不足であり、生命の根幹に関わる重要な感覚であり、そうした重要な感覚が通常、しらふの状態でなぜ不快に感じられるかも含めて、深い分析が必要と考えられる。
人間は、生命である以上、誰でも本質的にエッチだが、通常モードでは、エッチなことは考えていないし、いきなり発情することは望んでいない。
また、セックスは、極めて個人的なものであり、普段はプライベートに隠しておきたいものでもある。性器や下着も他人に見られないように周到に隠されているのが普通であり、他人の性器や下着を断りなく見たり触ったりする痴漢行為が犯罪とされるのも、こうした、セックス・プライバシー確保への欲求と関係がある。
また、誰に対しても見境なく発情する訳ではなく、好みというものがある。好みに合わない相手に発情を押しつけられるのはセクハラである。女性は、肌の露出など男性を性的に誘う服装をするが、実際には、自分の好みに合う男性のみを誘いたいのである。しかし、実際には好みに合わない男性も誘ってしまうことになる。このジレンマを解決する方策を考え出す必要がある。
通常モードにいる人間に、発情モードを押しつける、無理やり発情モードにさせるのがセクハラである。男性による女性の痴漢や強姦がそうである。女性による、男性を誘う大胆な露出も実はセクハラなのである。通常モードにいる人を発情に誘うには、その人の意思に反する発情の押しつけをすること(皆が見ている場所で相手を無理やり愛撫して性的に興奮させることなど)は望ましくなく、適切なタイミングを選んで同意を得ることが必要となる。
満員電車で、過度の露出をしている女性は、男性へのセクハラであるとして、警察に突き出す権利を男性に与えるべきである。男性を不適切な場所で発情に追い込むのはセクハラである。発情する方(男性)も悪いが、通常モードにいる人間を無理やり発情させる側(女性)も悪いと考えるべきである。男性が我慢しきれずに痴漢行為をした場合、男性側だけでなく、女性側も、その服装に問題がある場合、突き出すべきなのである。
一方、発情は、人間にとって当然のことであるから、発情モードでは、ノーマルセックスについての情報制限、制約を外すべきである。例えば、雑誌やビデオに性器の画像を載せることも、適切な場所、場面で発情モードに入っている人に対しては何ら問題のないことであり、認めるべきであろう。日本の現状のように性器にモザイクをかけるのは不自然である。要は、発情モードになる場所、場面が、通常モードからきちんと分けられていれば、発情に関する刺激の制約は、ノーマルセックスに関しては外して構わないのではないか(ただし、相手の身体や心理に損傷を加える可能性のある異常性愛については、規制が必要になるかも知れない)。
なお、発情モードでも、セックスの相手の意思は尊重されるべきであり、本人のいやがる体位や服装、器具を用いるなどでのセックスを押しつけは回避されることが必要である。セックスは、その最中も、絶えず相手との同意やコミュニケーションを十分に取りながら行い、相手への心理的な配慮を重んじて、一方の側の一方的な自分勝手な満足に終わらないようにする必要がある。
セックスは、他人の身体が自分の身体の中に入ってくる(女性)、ないし、自分の身体を他人の身体の中に入れる(男性)という点では、(手術で輸血や臓器移植を人為的に行う以外の)唯一の行為である。その点、身体の挿入について、双方の合意が行為前と行為中に取れている必要がある。
通常モードから発情モードへの移行、あるいはその逆をどのようにスムーズに行うかが、人間が、自分の中に内蔵するセックスへの衝動とうまく付き合っていく上では重要である。セックスから離れた通常モードと、発情モードとの区別をきちんと行うしつけを、子供に対して行うことが必要である。
3.セックスと人権
人間が異性とセックスをすること自体は、生物として自然なことであり、そのことについて恥じたりする必要は特にない。
ただし、セックスにおいては、守られなければならない基本的人権に関わる事項がいくつかあると考えられる。
まず、セックスする相手を選ぶ権利が確保されなければならない。自分がセックスしたい、してもいいと思った相手とだけ、セックスできる自由が確保される必要がある。自分がセックスしたくない相手とのセックスを強要されることは、あってはならないことである。特に女性の場合、自身で経済的に自立する十分な生業を持ち合わせていない場合、男性から手っとり早く資金を貢がせる手段として、特に好きでない相手ともセックスをすることが、援助交際や売娼業の形で行われているが、これらは、この原則を脅かす危険な行為である。下手をすれば、女性が、男性側から一方的に強姦された後に、手切れ金を渡されたら、反論できない、みたいな慣行が確立されてしまうことになりかねないからである。
また、セックスにおいては、その全ての過程において、互いの意思が尊重されなければならない。男女のどちらかが、セックス中、一方的に自分の快感を満たそうとして、相手に快感を伴わない苦痛を与えるだけに終わることは、避けられなければならない。あるいは、一方が嫌がる行為を無理やり行ったりすることも避けなければならない。これは、特に女性を「攻める」側に立つ男性側に求められる態度である。セックスの過程においては、互いのコミュニケーション、意思疎通を絶えず十分図ることが必要であり、「~するよ?」「いいよ」、「~して」「分かった」みたいな確認を、互いに段階毎に十分踏んでいく必要がある。
あるいは、セックスは、生命の誕生に関わる重要な行為であり、その遂行に当たっては、自分たちが今行っている行為によって、受精が起こり、新たな生命が誕生することになる可能性があることを、事前に認識しておく必要がある。そのためにも、もし、今行っているセックスによって子供が生まれることを希望しない場合は、事前に、避妊の知識や具体的な手続き(コンドームの装着、ピルの服用など)を十分得てから、セックスすべきである。避妊失敗による中絶についても、予め、母体に子供を産めなくなるなどの影響が起こりうる等の知識をセックスの前に持った上で、原因となるセックスをした女性だけでなく、男性も共同で責任を持って対処すべきである。従来は女性側のみで悩んで、孤独のうちに処理することが多かったと考えられるが、それは不公平である。受精卵からDNAを採取すれば、相手の男性が誰かは分かるはずなので、その男性にも責任を強制的に取らせる法整備があってよいと考える。あるいは、避妊の失敗や人工中絶を取り扱う医療保険のようなしくみを作って、セックスを行う男女が共同加入するのでもよいかも知れない。
4.セックスとプライバシー
人間は、セックスについて、プライベートにしておきたいという欲求がある。なぜ、隠してプライベートにしておきたいか?なぜ、セックスのことを公開するのが不適切と感じられるのか?以下にまとめた。
(1)人間の通常モード(しらふの状態)では、セックスのことを直接的に見聞きさせると不適切である。セックスに関する情報は、通常モードの他人に不快感を与えるためである。
(2)セックスが好きなら誰でもよい、浮気者だと思っているんだと他人に感じられることが不適切である。コロコロ、セックスの相手を変えられてしまうと、人間は困る。それは、特定の相手と子孫を残し、育てる作業を長期共同で行う必要のある、人間の性向に違反するためである。そういう相手を避けたいという気持ちが人間の中にはある。
セックス好きでも、ずっと特定の相手とセックスしまくりが好きなのは、特に問題がない。しかし、人間一般の性向として、セックスを繰り返すと次第に相手に飽きてきて、マンネリになる。結果としてセックス好きは相手をコロコロ変えやすい、ということになる。
容易に発情モードに入りやすい、セックスが好きで、中毒(ヤリマン)であると感じられると不適切であるのは、セックス好きが「浮気者」の概念と結びつきやすいからである。
(3)セックスの相手(誰とセックスしたか)を知られると不適切である。ある相手とセックスしたことを公表されると不適切であり、だれとやったかは秘密にしたい。それは、誰とセックスするかは、誰と子供を残すかに直結することであり、人間は、誰とでも子供を作る訳には行かない。この人とは子孫を残したい、この人とは残したくない、という意向、価値観は尊重されるべきである。下手にセックスしたと公開すると、子供を残す相手を決めたと周囲に速断されてしまうことにつながり、それはマズいことである。
(4)人間は、セックス中は、ガードがなくなる、無防備になるのが不適切である。セックスに夢中になって、外界への注意が疎かになり、外敵に襲われやすくなる。そこで、セックス中であることが分かると困る、隠したいという気持ちが出てくる。
2004.6-2005.10 大塚いわお
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