先達・前例の絶対視について
-日本社会を吹き荒れる先達、先生、先輩「風」-

2006.4 大塚いわお


日本では、会社とか学校に入ってきた新人や新入生に対して、やたらと先輩風を吹かす上級生とかが多い。
あるいは、大学、カルチャースクールや家元とかで、入部生に対して、先生風、師匠風を吹かす教授、教官、講師が多い。

あるいは、直系家族の家庭では、姑が嫁に対して、自分が嫁だったときに苦労して体得した家風を吹かして、いじめる姑根性で接することが多い。

こういう風は、たいてい次のような語句と共に吹くものである。

「そんなこともできないのか。駄目だな。」
「ちょっと褒められただけでいい気になるな。」
「まだまだだな。」
「○○は、会得するのは並大抵のことではないぞ。」
「○○は、生半可なことではできないよ。」
「お前のような初心者には無理だな。とっとと帰れ。」
「まだ、当分奥義は教えられない。」
「教えてやるんだ。ありがたく思え。」

要は、やたらと、自分が習得した前例の困難さ、厳しさを強調する。また、自分の習得した前例を、「奥義」とか呼んで、誰にでも簡単に教える訳には行かないとして、前例そのものをありがたく思わせる手練手管に長けている。

自分に対して服従し、たくさん下働きをしたら、初めて、少しずつ、あるいはひょっとすると教えてやらないでもないという、尊大な態度に出る。

先生、先輩は乗り越えられない存在として、ひたすら尊敬の目で見られがちである。

こういう風を吹かす元になる考えは、「先達・前例の絶対視」と呼べる。要は、先達=前例ホルダーの持つ前例そのものをむやみに尊重し、前例を持っている、知っていることを盾に、まだ持っていない者、体得していない者に対して、やたらと威張る、上位者、支配者ぶる、厳しく接する。要は、前例を体得していること自体が重んじられ、簡単に後から来るものに教えられないとする。

また、後輩に前例を教えて体得されてしまうと、追いつかれ、下手すると追い越されて、自分より上手に出られてしまうので、警戒してなかなか教えようとしない、という面もある。



あたかも、奥の終点、中核に達する、様々な障害物や勾配に満ちた一本道があって、その道を先に行った者が先輩として、後ろを行く者(後輩)よりも尊敬される。また、様々な障害を乗り越えて、奥の終点、中核に達した者が、「奥義を会得した」として、上人とか呼ばれて最も尊敬される。

ひたすら、一本調子で、かつて先達の通ったその険しい道を進んで行きながら、前例を順次体得して行こう、奥義に達しようとする、求道者、巡礼のような日本人のありさまは、あたかも一億総巡礼のような感じである。

こうした、先達の歩んだ道をそのまま一本調子でひたすら踏襲する「道を極める」行き方は、「一本道指向」と呼べる。あるいは、一つの決まった山頂、終点をひたすら目指そうとする点、「山頂・終点指向」とでも呼べる。こうした一本調子の考え方は、本来、物事を習得するには、様々な複数ルートや人それぞれの別々の通過点があって、終点も特に決まっておらず、それを適宜自分の判断で組み合わせていく考え方(複数ルートの自己判断指向)と相反する。

日本において、こうした「一本道指向」「山頂・終点指向」が横行するのは、日本が山国で、身近に山があり、山の山頂が一つしかなく、山頂に向かう山道も限られ、しかも、山道の勾配がきつく、岩場とかの難所をたくさん抱えていることと関係していると言える。要は、先達の切り開いた険しい山道をなぞる形で登って、山頂を極めようとする「登山者的思考」が存在し、この険しい道を登る登山が、先達=前例ホルダーの到達した究極の奥義を極めようとする前例習得になぞらえられて捉えられていると言える。奥義会得が、山頂登頂になぞらえられているのである。

また、こうした「一本道指向」は、一度その道を歩き始めたら、終点までひたすら歩むしかない、変更、やり直しが効かないという、会社や官庁での終身雇用(いったんある会社、官庁に入ったら、用済みになるまでずっと構成員として歩き続けないといけない)の元になる考えであると考えられる。全ての進むべき道の判断を、以前道を通った先達に頼りきる、自己判断の停止、先達への依頼心、甘えの強さがそこには見られる。

これは、旧日本軍みたいに、一度失敗しても、進路変更の融通が利かずに同じ道、失敗を何度も強迫的に繰り返しやすい体質につながっている。

そこには、先達と同じこの道を行けば安全だとか、この道を行けば、先達と同じ奥義に到達できるとか言った感じで、権威におもねる、先達の持つ権威に身を委ねる権威主義的雰囲気がつきまとう。



こうした先達・前例の絶対視では、独創性の発揮は、分厚い前例を全て学習、習得して初めて可能なものであり、途方もなく困難であるかのように宣伝する。要は、未知の境地は、前例を全て消化吸収した後で、初めて見えてくると考えるのである。

実際には、独創や未知の境地をみつけることはそんなに難しいものではない。単に周囲の他人のやろうとしない、近づかない方向を目指すことを繰り返していくうちに、ごく身近にありながら、他人の気づかなかった、今までなし得なかった解決につながる穴を見つけることができる、ただそれだけである。

要は、99人があっちを見ていたら、1人だけそっぽを向いてこっちを見るのを繰り返せば、前人未到の境地に自ずから立ち至ることができるのであるが、日本のように、周囲が大勢順応の雰囲気に染まっており、一人だけ違うことをするのを許さない精神風土の社会だと、これはなかなか難しいことである(欧米とかだと比較的容易と考えられる)。

このようにして抜け穴的に簡単に到達した、一応前人未到の新境地を、あたかも険しい一本道を進んだ終末にやっと見える奥義として、やたらと神聖化、神秘化して見せることで、自分にペコペコいつまでも付き従う弟子をたくさん量産することも可能である。というか、到達した本人にはその気がなくて何もしなくても、弟子の方が勝手にありがたがって付いてくるというのが実態であろう。欧米人の研究者に弟子として師事する日本人の弟子とかはこのパターンと考えられる。

あるいは、そもそもそうした新境地?を簡単な思いつきで自作した後、その境地を分厚い秘密のペールで覆って見せないことで、さもありがたいものであるかのように見せることも可能であり、新興宗教とかの指導者はこの手の輩が多いのではないかと思われる。



このように、先達の会得した前例をひたすら重んじる行き方は、同じ場所に止まったままストックを蓄積していく農耕民的な行き方であると言える。同じ場所にい続けるので、先祖とかの先達の残した物の見方、考え方が、ずっと有効であることが、前例やしきたりを絶対視する風潮につながっている。

また、我が身の安全をひたすら重んじ、安全を保障してくれる先達の成功例にあやかろうとする点、保身、退嬰的な女性性にもつながっている。

この習性が身体に染みつくと、どこかに前例がないと何もできない、お手上げとなる事態が生じる。そのため、誰かの成功した前例探しに躍起となる。それはたいてい欧米社会とかの遊牧・牧畜民的生き方の人々が未知の分野に一人挑んで失敗を積み重ねながらやっとの思いで得た物であり、それを特許料とかの高い代償を支払って、手に入れることになる。



なお、同じタイミングで会社や学校に入った者同士を、自分と同期として、勝手に一体感を抱いて、やたらと馴れ馴れしく振る舞うのは、その進むべき道において、同じ位置を占めるため、前例蓄積の度合いが自分と同じと考え、同一視しているためと言える。

こういう風に同期をなれなれしく扱い、付き合う人は、往々にして、先輩に向かってやたらとペコペコ服従する、後輩根性を持つと共に、後輩に対してやたら厳しく横柄に接する先輩風を吹かせるものである。この点、「同期」「先輩」「後輩」は、前例絶対主義の3点セットとして捉えることができる。

要は、「同期意識」と「後輩根性」、「先輩風」は、同じ道を進む時間的前後関係をそのまま上下関係に持ち込もう、その裏返しで、同じ道を進む時間的同期関係をそのまま平等、同格関係に持ち込もうとする意識の現れであり、日本社会を今でも覆う年功序列の考え方の元になっていると言える。


上記と関連して、日本には、ある特定分野についての知識が豊富であることをひけらかして自慢する「ウンチク垂れ」が少なからず存在する。アニメやコミック、ゲーム分野でのオタク呼ばわりされる人とか、ワイン、陶芸分野での知識自慢をする知識人とかがそうである。「オレはお前らの知らないこんなことを知っているんだぞ。どうだ、凄いだろう」という態度が見え見えである。

あるいは、分野を限定せず、様々な事柄について、広範な知識を持っていることをひけらかして自慢する「雑学屋」も多数存在する。「こんなに一杯、いろいろなことについて知っているんだぞ。お前は知らないだろう。」といった感じで威張る。

彼らに共通して言えることは、知識を持っていること自体が偉いことであり、自慢の対象となるという考えを持っていることである。その知識は、何ら彼ら本人が考え出したものではなく、誰か他の人が考えたことであって、「ウンチク垂れ」「雑学屋」の彼らにアイデアのオリジナリティがなくても、全然問題にはならない。専ら蓄積している知識の質量が問題とされるのである。

この場合の「ウンチク垂れ」「雑学屋」の持つ知識は、既存の知識すなわち前例であり、彼らが、知識を持たない他人に向かって知識をひけらかして威張るのは、経験のない新人に向かって先輩風を吹かすのと、何ら変わることがない。


2006 大塚いわお

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