日本人と権威主義

2006.02-2006.04 大塚いわお


1.日本人の欧米権威筋への追従について

現代の日本人、特に大学とかにいる学者や、一般知識人、文化人と言われる人たちは、権威主義を否定し批判する。また、自分のことを権威主義者だと言われると顔を真っ赤にして怒り出し、自分は権威主義者ではないと必死になって主張する。

では、権威主義を否定する彼ら日本人が、権威主義者ではないのかと言うと、実は権威主義者だと捉える方が理に適っている。

と言うのは、彼ら日本人が権威主義を否定するのは、そもそも彼らが依拠する欧米権威筋の学者が、権威主義を否定、批判しているからである。

ここで、欧米権威筋というのは、欧米の学界において、著名な学説を提唱した、提唱している学者のことを指す。

欧米の社会学界においては、アドルノやフロムといったユダヤ人学者が、戦前ドイツでユダヤ人らを迫害したナチス・ドイツとその信奉者たちを、「権威主義」だとレッテルを貼って批判し、それが、ナチス・ドイツの性格的特徴をうまく説明した学説であるとして一躍有名となった。この点、アドルノやフロムは著名な学説を提唱した権威ある学者ということになり、その評価は現時点でも変わっていない。この点、欧米の権威筋の学者が権威主義を批判、否定していることになる。

この欧米権威筋による権威主義否定が、欧米のステータスや権威に弱く、その後を追いかけ、崇拝することに熱心な日本の知識人たちの頭の中に導入されると、面白い現象が起きる。

日本人のインテリは、欧米の権威筋が権威主義を否定しているので、欧米権威筋に依拠する自分たちも、権威主義を批判、否定しないといけないと思い込んで、欧米権威筋の「権威主義否定」の学説をそのまま真似て直輸入して、自分たちも権威主義批判を行う。

要は、日本人のインテリは、自分が権威主義者だからこそ、(欧米)権威筋の出した権威主義否定の学説をそのまま信仰するする形で、権威主義を否定するのである。と言うか、「権威主義的に」権威主義を否定する。権威主義に忠実に則る形で、権威主義を否定するのである。この点、「権威主義者が、権威主義的思考で、権威主義を否定する」という、妙に矛盾した事態が日本では起きているのである。これは、「(権威主義者による、)権威主義の権威主義的批判」現象と呼べる。

日本人インテリが権威主義を否定するのは、欧米権威筋の学者による権威主義批判が世界標準の定説になっているからであり、彼ら日本人のインテリは、本当は欧米権威筋の意見をひたすら後追いする権威主義者なのではないかと考えられる。

日本人のインテリは、欧米権威筋の学者が言うこと、ないし欧米学界におけるメインストリームの学説を、正しい説だとして信じ込む。そして、欧米権威筋の学説を、そのまま忠実に学習し、模倣しよう、いち早く日本に紹介して、その学説の日本における第一人者として日本国内で認められ、尊敬されようと懸命になる。欧米権威筋の学説は、教科書とかに大きく載っていることが多いので、それが定説だと考える。そして、欧米権威筋の学説(欧米で常識になっている学説、潮流)に反する学説を日本人が提案すると、あるいは、欧米権威筋の学説を日本人が批判すると、「欧米の権威ある先生に楯突くとは何様のつもりだ。身の程知らずもいい加減にしろ。」と、馬鹿にして足を引っ張る、無視するのが通例である。これが、日本人のインテリが取っている「権威主義」的態度であり、ごく普通に見られる。

ところが、自分たちがそうして馬鹿にしたところの、既存の欧米学説を批判した日本人の学説が、いったん欧米学界で受け入れられると、日本人のインテリは面白い行動をする。すなわち、慌てて旧来の態度を変えて、その馬鹿にしたはずの日本人の学説を持ち上げ、称賛するようになる。馬鹿にし、無視する対象とした日本人同胞のことを一転「大先生」と持ち上げ、自分もその後を追おうと必死になるのだ。ひいては、「自分と同じ日本人が世界に認められた」として、いったん馬鹿にしたはずの日本人同胞のことを誇りに思うまでになる。無論、彼らにとって、「世界」とは、「先進国である権威ある欧米」のことである。特に、日本人がノーベル賞を取ると、インテリだけでなく、一般大衆も一緒になって、称賛の嵐、ブームが起きる。取る前は、「○○の奴」とかいって馬鹿にしていたのに(この辺の事情は、江崎玲於奈や西澤潤一の著書を見ると載っている)。

これから、欧米学界の定説に反する学説を出そうとする日本人は、欧米学界に自説を出す前に、日本人関係者に自分の学説を説明し、反応を録音しておくと良いと思う(多分、多くの関係者から、そんな学説ダメに決まっていると突き返されると思うが。)欧米学界に学説を出した後で、自分の説が欧米学界に受け入れられた時に、受け入れられる前と後で、日本人関係者の反応が違うことが分かることもさることながら、その日本人関係者が、欧米で受け入れられた説を、かつて否定していたことに関する決定的な証拠を持つことになり、その日本人関係者の弱みを握ったことになる。これは、その日本人関係者が、著名な大学の教授だったりすると、取引材料として大きな効力を持つと言える。

日本人は、中央官庁みたいな「お上」に弱く、従順であろうとするが、欧米(特にアメリカ)は、更にその上を行く「スーパーお上」なので、欧米でメジャーな学説や運動については、中央官庁の役人も含めて、ペコペコ崇拝、信仰するのである。あるいは、欧米通の日本人は、欧米でメジャーな考えを引き合いに出して、「お上」である日本政府の動向を批判することが多い(「欧米では既にこうなっているのに、日本はまだまだこのような状態のままだ。日本政府は駄目だね。」という感じである)が、これも実は、欧米崇拝の権威主義であることが多いのではないか。「スーパーお上(欧米)」の威光を以て「お上(日本政府)」を制するという感じである。

こうした権威主義は、「自らもみんながそこに集まる、権威筋の主流派に属して、メジャーで光の当たる安全なところにいて、いい思いをしたい」という、ウェットで女性的な考えと言える。

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厄介なのは、こうした欧米崇拝のウェットな権威主義者と、根っからの欧米的なドライな考えの持ち主とを区別することが難しいことである。彼らは、両方とも、権威主義を批判し、ウェットな態度を批判するので、見た目には見分けが付かないのである。ウェットな権威主義者の側も、権威主義否定の学説を信仰しており、自分が権威主義であることを認めると、自分が「欧米(=権威主義に反対であり、ドライ)=一流」と同等の格付けであったのが格下げになってしまうので決して認めない。彼らは、心理テストとかでも、どちらも同じように、欧米的なドライな方を自分に合っているとして選択する。この2者を何らかの方法で区別することが必要であり、今後の課題である。



2.日本国内の権威筋の存在について

日本の学者は、欧米学説のデッドコピーとその解釈、いじり、小改良に終始する場合が多い。この場合、欧米学説をいじるというのは、複数の欧米の学者が互いに違うことを言っているので、その整合性を取ろうとする行動である。

もともと、欧米の学者の学説は、あくまで、一個人の学説であり、それは、間違っているかも知れず、乗り越えるべき面のある学説なのであるが、日本の学者には、そうしたことについての視点や気づきが足りない。要は、欧米で主流の学説を、「お上=権威筋の説」「大先生の説」として、無批判に、崇拝、信仰し、受け入れ、取り入れようとする面がある。

日本の学者たちには、自分で、既存の欧米での学説を打ち壊して、それを乗り越える学説を出そうとする試みを出すことを、自分たちの内部で否定し、自分たちが権威筋と見なす、主流の欧米の学説の批判を許さない面がある。

なぜ、こうした現象が起きるかと言えば、そうした欧米で主流の学説について、日本国内の権威筋の学者がそれに依拠しているためである。依拠するというか、せざるを得ないのは、日本国内の権威筋の頭だけでは、欧米学説のような、ドライで革新性に富んだ、意表を突く、スケールの大きい学説を自らは生み出すことができないからである。

なぜ生み出すことができないかと言えば、彼ら日本の権威筋には、心の根本的なところで何よりもプライドが高く、人の風評に傷つきやすく、冒険して失敗して笑い物になることを恐れるために、とにかく安全で、当たり障りのない、既に確立された発見発明や技術等をひたすら頭に入れ、習得して博識、博学になることで、前例、しきたりの生き字引と化して、「自分は何でも知っている、できる先生、先達である」として、皆の尊敬を集めよう、周囲を未熟な後輩と見なして先輩風を吹かせて実効支配しようという、女性的、退嬰的な事なかれ主義的で、なおかつ人の前に出よう、偉ぶろうとする出しゃばりの魂胆があるからだ。

日本の学者は、原則として、何らかの、出身大学や師弟関係、先輩後輩関係に基づく、縁故集団の中に入って生きている。学閥や、似た考えに染まった同士がつるんで形成する派閥が相変わらず幅を利かせており、その中の有力者(教授、先輩)が、日本国内における権威筋として、他の成員に向けて睨みを利かせているているのである。

要は、日本の学者は、親代わりの権威筋との上下関係に基づく、ウェットな縁故集団、疑似家族集団の中にどっぷり浸って生きている。こうした集団は、親子、上下関係からなる一種の「系列」として捉えることができる。日本の学者は、何らかの有力な権威筋系列の中に入っていないと、アカデミックポストの配分を受けられず、生活できなくなり、生きていけないのである。逆らうと、アカデミックポストを奪われたり、系列の外に飛ばされたりして、生きていけないのである。

日本の学者は、自分の身の安全、保身についての意識が敏感である。そうした身の安全は、現在の権威筋を批判することで、脅かされる。批判することで、権威筋からその行動を批判され、日本国内で仲間外れとされる恐れがある。要は、自分が今入っている権威筋のグループから外される恐れがあり、そうなると、どこからも仲間に入れてもらえず、孤立して、生きていけなくなるので、批判しないのである。

日本の学者は、自分の所属する権威筋系列に対して、異議を唱えたり、逆らうことが難しい。そして、日本の権威筋が、欧米学説をデッドコピーしている状況が、権威筋とその弟子、後輩の関係、師弟関係を通じて、権威筋系列内の世代間を通じて脈々と受け継がれているのが、日本の学界の現状であると考えられる。


日本の学界においては、権威筋に逆らうと、人事上の報復が待っているので、権威筋の学説に逆らえない。要は、逆らうと、アカデミックポストの配分が受けられなくなり、学者として生きていけなくなるのである。

日本の学者は、欧米学説=権威ある学説をデッドコピーしたものを、小改良し、少しだけ変えたり、他の権威ある学説と比較するのに終始している。欧米の学説を微細にうがって、解読、解釈するのに懸命になるのであるが、それは、あたかも、「聖書」「お経」の解読と同じである。要は、欧米の学説が、権威ある教典、経典と見なされているのである。

それは、要は、日本国内でアカデミックポストの人事権を握る、植民地支配大学の教授=権威筋がそうした欧米学説のデッドコピーに終始しており、日本の学者たちは、彼らに忠誠を誓っていることを示すため、それに倣った行動を取っているのである。

要は、日本の学者にとっては、自分の論文等における学説、主張内容が、自分が属する権威筋への忠誠があるかどうかの踏み絵となっているのである。そこでは、権威筋と主張内容が、基本的に同じであるか、継承しているかどうかが重要であり、論文の主張内容そのものは、二の次になっている。

日本の学者にとっては、欧米権威筋や、それに依拠し、デッドコピーを行おうとする自分の先生、先輩が唱えたものは絶対的な重みを持つ。

ある日本人学者の論文内容が、欧米権威筋のデッドコピーとその小改良となるのは、彼が、日本学界の権威筋を中心とする系列の一員である証拠である。論文のスタイルから、彼が、権威筋に忠誠を誓い、身を守られていることが分かる。ただし、微細な内容の相違により、派閥が違ったりする。


3.女性的な権威主義

日本人の権威主義は、ある点、女性的な特徴を持っている。

それは、権威に寄り添うことによって、自分の身の安全が保たれる、大過なく生きて行けるという、保身や、事なかれ主義に結びついている。

また、主流派のいるところに自分もいないと、孤独で寂しいという、主流派との一体感を求める考えとも関係ある。

あるいは、誰か大きな存在の元に寄り掛かり、甘えたい、依存したいという、依頼心の強さとも関係がある。

権威あるものと一体化することで、精神的なバックボーンを支えられる気分となって、気が大きくなり、初めて、人前で発言する勇気が出るといった面もある。

男性の場合は、既存の学説を叩き壊したり、潰したりして、代わりに自分の学説を、種付けしようとする。権威に逆らい、潰し、自由になることを目指し、場合によっては、自分が新たな権威者になって、他人に言うことを聞かせることを目指す。

これに対して、女性は、既存の権威者に従順に従って、権威者をそのまま忠実に継承して、後継の権威者となることを目指す。要は、自分の属する系列の権威筋に逆らおうとせず、既存の権威筋の学説をそのまま継承しようとするのである。

この点、日本の学者の取っている態度は、明らかに、守られる側の性のものであり、女性的である。


4.ウェット、母性的な権威主義とドライ、父性的な権威主義との区別について

従来、欧米で権威主義の定義とされてきた、ドイツ人の権威主義と、上記で述べてきた日本人の権威主義とは、同じ権威主義という言葉を使っていても、その中身は大きく違うと考えられる。

ドイツ人の権威主義は、命令と服従の上下関係の連鎖として捉えられる。要は、上下の命令系統が厳格、正確、機械的に守られること、上位者の命令が下位者にとって絶対的であり、それを可能な限り忠実に守ることが彼らの中では自己目的化しているのである。彼らにとっては、指示や規則が、上から下へと、徹底されること、直行することが、命令する側にとっても、それを守る側にとっても快感なのである。

こうした態度は、上位者が、下位者のことを、自らの目標達成のための道具、ツールとして、突き放して眺めるものである。また、上位者が定めた教条、因習、形式が、カッチリと、機械的(メカニカル)に、隅々まで絶対的な教えとして下々へ原理主義的に浸透することを目指している。社会全体が、巨大装置のメカのような大きな指示伝達、上意下達のための機械、歯車装置として捉えられる。

これは、キリスト教のような、父なる神の原理主義と軌を一にする男性的、父性的な、ドライなものであり、ドイツ人の権威主義は、ドライな権威主義、父性的、父権的権威主義と呼べる。

これに対して、日本人の権威主義は、自分も主流派の一員に属することで、保身、身の安全、一体感が欲しいという欲求に根ざしている。要は、権威筋が中心となって主宰するウェットな輪、グループの中に自分も加えてもらい、その中の一員でいたい、止まりたい。権威筋系列の一員でいることで、権威筋が優先的に分捕ってくる便宜にあやかって、おいしい思い、温もりに満ちた思いをしたい。権威筋に身の安全を保証してもらい、庇護してもらい、依頼心や甘えを満足したい、という思いが強いのである。

権威筋の主宰する輪から外れると、身の安全が保証されない。寒風が吹きすさぶ悪条件が待っているので、抜けようにも抜けられず、権威筋の言うことにペコペコ従って、身の安全を図りたい、という気持ちが強くある。

権威筋のグループ、系列の一員に入れてもらう、ウチに入ることで、排他的な一体感が保証され、温かな疑似家族集団の中に入った感じとなる。

この場合、権威筋は、母性的なウェットな存在として立ち現れ、日本人の持つ、母なるもの、大きな温かいものに包含されたい、互いに一体感を持ちたいという欲求を満足させる点、日本人の権威主義は、ウェットな権威主義、母性的、母権的権威主義と呼べる。

従来は、この2つの権威主義は、日本においては、区別されず、混同されて使用されてきた。というか、権威主義という用語は、日本国内では、現在も専ら、ドイツ人のようなドライな父性的権威主義の方を指しており、ウェットな母性的権威主義についての思慮が足りていない。今後は、別物として分けて捉える必要がある。


5.権威主義とプライドの高さについて

権威主義者は、一般にプライドが高い。自分を権威付けたがるのは、自分を高く位置づけたがることと関係しているからである。あるいは、結婚見合いとかにおいて、学歴や資格などで自分のことを箔付けしたがるのも、権威主義の現れである。

日本人は、自分のことを欧米みたいに、世界で一流と呼ばれたい、一流国の仲間入りをして、アジアの他の国を見下したい、差を付けたいと願って、今まで努力してきた節があり、その点、日本は、「高プライド社会」と呼べる。日本人のこうした、一流願望も、一流評価の持つ高い権威への憧れとして、権威主義と呼べる。

日本人と高プライドについての説明ページへのリンクです。


2006 大塚いわお

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