日本=高プライド社会論

2006.07 大塚いわお


日本は、過去のアメリカとの太平洋戦争において、「戦況は日本に有利。日本は勝利を続けており、負けることはない。」という、いわゆる大本営発表を、戦況が日本に不利になって、降伏する直前まで、旧軍部が国民に対して繰り返していた。

一方、現代の日本において、人々はなかなか英語がうまくしゃべれずに困っている。中学高校、場合によっては大学と、6年以上も英語を学びながら、なかなか満足に会話することができず、英会話スクールに高い授業料を支払って通ったりしている。

この一見、何にも関係なさそうな2つの事柄は、実は、ある視点から見ると、互いに密接に結びついた現象であることが分かる。では、その視点とは何か?それは、「プライドの高さ」である。



なぜ、日本の旧軍部は、戦争が日本に不利になった後も、大本営発表を続けたか?それは、自分たちが、戦況不利というまずい状況を自分たちの責任でもたらした事実を、認めることができない高いプライドを持っていたからであると筆者は考える。

要は、自分たちの犯した失敗、間違いを公の場で認めることが、自分たちの体面を根本的に傷つけるものであり、何としても避けなければならないと心の奥底で認識していたのではないか。

そのことが、実際の戦況に関する情報を内部で無難に取り繕って、口裏合わせをして、対外的には戦果が上がったと良い情報ばかり流し続けることにつながったと考えられる。

また、「本当に日本は勝っているの?」という国民の疑問、批判が出ること自体、軍部の人々には、自分たちのプライドを傷つけるものとして耐えられないものであった。

旧軍部が自分たちの方針を批判する人々を、人々を隣組を使って相互監視させたり、特高警察を使ってどんどん逮捕して、投獄する行動に出たのも、自分たちに対する批判や疑問の指摘が、自分たちのプライドを真正面から傷つけるものであったからである。

日本人のプライド、体面というものは、見かけは強がりなのでさぞかし強力そうに見えるが、実はちょっとしたことで簡単に傷ついてしまう弱いものなのである。そして、その傷の痛みに対する耐性が甚だ弱いと来ているから始末が悪い。

結局、旧軍部の人たちは、自分たちに対する批判が自分たちのプライド、体面を傷つける痛みに耐えきれず、批判分子を、自由に物が言えないように次々と投獄していった。

そうすることで、社会の中には、彼らを公然と批判してブレーキをかける役の人々がいなくなったため、「体面、プライド維持心理の暴走」が延々と続き、それが「戦果が上がった。成功だ。」と実態と乖離した内輪褒めの内容の大本営発表の繰り返しになって現れたと言える。



日本においては、「お上」(これは国の上層部に限らず、企業の上層部とかもそうである)がプライドが高いと、下々は「お上」(の取る行動)を止めることができない社会的仕組みになっているのではないかと考えられる。「お上」の「体面、プライドの暴走」が構造的に起きやすくなっているのではないか?

要は、下々は、お上に対して、間違いを公然と指摘したり、お上の気に障る反対意見を公然と言うことができない。言ってしまうと、お上のプライドがいとも簡単に傷ついてしまい、批判者は投獄されてしまったり、追放されてしまう。そこには、「批判の禁止」の規範が暗黙のうちに存在している。

批判、反対分子を投獄や追放してしまうと、後は皆、「行け行けゴーゴー」の意見の者ばかりが残り、皆同じ意見で気持ちが大きくなり、大言壮語で、自分たち自身の言葉に酔ってしまい、自分たちは正しいんだと心の底から思いこむことになる。こうすることで、プライドが満足される。

しかし、自分たちが作り上げた、高いプライドを満足させる理想的状況(常勝状態)は、実際の戦果が敗戦となることが増えていくにつれて、その土台がどんどんぐらついて行き、プライドが傷ついていく。

そのため、ちょっとした批判に対しても敏感になって、自分たちの間違いの無さ、戦略の正しさ、すなわち「無謬性」「自分たちの方針通りで大丈夫、きっとうまく行きます」を必死になって、しゃちほこばって、ヒステリックに主張し続けることになる。そうすることで、揺るぎ始めた自分たちのプライドを保つのに必死なのである。



こうした「体面、プライドの暴走」状態は、何らかの外的な圧力によって、強制的に誤りを認めさせられるまで、ないし降参させられるまで、延々といつまでも続く。すなわち、外部からの強制力によって、化けの皮がはがされて、自分たちの間違い、失敗の実態が誰の目にも明らかになることが隠せない状況になるぎりぎりのところまで、続くことになる。

太平洋戦争の場合、この、「体面、プライドの暴走」を遮断した外的強制力が、アメリカ軍による原爆投下であったと考えられる。これによって、ようやく暴走に終止符が打たれた訳であるが、結局、日本軍は、自分たちの力では、大本営発表の続行を止められなかったことになる。

日本の軍部の人たち(遺族を含む)の中には、アメリカ軍の勝利によってへし折られた、自らの体面、プライドを何とか維持すべく、靖国神社に、国の英雄として祀ってもらう人たちもいる。自分たちが戦局を誤って導き、日本社会や人々に多大なダメージを与えた責任を取るという意思がそこには見られない。

それほどまでに、日本人にとって、プライドの維持は重大関心事なのであると言える。



戦後教育で、旧日本軍はすっかり過去の歴史扱いされ、自分たちは、アメリカ民主主義のもと、新たに生まれ変わったので、もう旧日本軍は関係ないという意識が社会の隅々まで行き渡っているように思える。

しかし、例えば、公害とかの、国と地域住民との訴訟で、住民が勝訴すると、それに対して国が必ず控訴するといった現象が、現在でも一般的に見られるようである。これは、国の行政官たちのプライドの高さと、住民勝訴によりプライドが傷つけられ、それを防ぐために控訴をいつまでも繰り返すことを示しているように見える。



一般の日本人も、ひとたび、旧日本軍や、役人の立場に仮に立ったとした場合、「体面、プライドの暴走」を引き起こす可能性が今でも十分にあるのではないか?

その可能性を示すのが、冒頭で述べた「日本人は英語がしゃべれない」問題である。

日本人が英語をしゃべれない理由にはいろいろあると思うが、根本理由は、「間違えるのが怖い。間違えて周囲に笑われるのが嫌だ。」という、日本人のナイーブで傷つきやすい体面、高いプライドにあるのではないか。

そこには、学校の英語の授業とかで、間違いを犯した当人に対して、あからさまに失笑したり、好奇の目でじろじろ見たり、うわさ話、陰口を叩く一方、自分自身は、そうした嘲笑や陰口の対象となることを何よりも気にし、恐れる、二面的な体質が存在する。

それゆえ、日本人が英語をしゃべるに当たっては、その正しさ、合っていること、間違いがないことを限りなく強迫的に追求しようとし、それが、正解が口を突いて出てこない、すなわちしゃべれないことにつながっていると言える。



こうした日本人の高いプライド維持欲求、「高プライド性」がもたらす、正しさ、合っていることの限りなき追求は、日本の時計やカメラといった製品や、鉄道の運行ダイヤのアウトプットが極めて精密、正確に出来上がり、無上の国際競争力を誇ることにもつながっていると言える。

日本人と正確さに関するページへのリンクです。


高いプライドを持つことは、決して悪いことではなく、こうした面からは、むしろ望ましいとも言える。



日本人の高いプライドの源はどこから来るのか?それは、「他人の目」を常に意識せざるを得ない、社会における、人の密度の濃さ、あるいは人と人とのつながりの強さではないか。

要は、体面やプライドは、他人と自己との比較を行う過程で、自己が他人に対して、優れているか、劣っていない、傷がないと判断される場合に生じ、維持されるものであり、その点、自分に対して比較を行う他人の目の存在が必須である。

日本人のプライドの高さは、伝統的な稲作農耕が必要とする、社会構成員同士の一致協力の必要性の高さ、集団性の高さに基づくものであると言える。その過程で、成員間の頻繁な相互作用につれて相互比較が生じ、否が応でも優劣を付け合うことになり、そこで、成員各人にプライド維持欲求が生じたと考えられる。

この点、高いプライドは、人と人とがより高密度で共同生活し、高頻度でやりとり、相互監視をするウェットな社会(パターンWに従って動く社会)で生じやすいと考えられる。

パターンWについて説明したページへのリンクです。

この点、高いプライドは、日本だけでなく、他の稲作農耕に従事する東アジアの各国(中国、韓国、フィリピン、ベトナム・・・)社会に共通に見られる現象であると考えられる。これは、例えば中国で「面子」が重視されることに現れていると言える。



なお、「体面、プライドの暴走」現象は、根底に、それを引き起こす当人たちの「高プライド原体験」があると考えられる。

旧日本軍の上層部の将校たち、あるいは現代の中央官庁の官僚たちは、小学校から、ずっとトップレベルの成績を取って突っ走ってきたか、きている。その点、彼らは、周囲の他人と比較して優位にあった状況が生育過程において長く続き、それが原体験として、高いプライドをずっと維持、満足させてきているのであり、それが、プライド維持に対する異常な執着心を生じさせたのではないか。そしてその執着心がプライドの暴走を引き起こした・起こしているのであろう。


何らかの失敗や周囲の嘲笑によって、プライドが傷つくと、自分を高い、誇らしいものと考える自尊感情self-esteemの度合いは低下する。しかし、普段の自尊感情が低いから、あるいは自分に自信がないからといって、プライドも低いと考えるのは誤りである。

要は、プライドは、自分のことを高く、上位に評価して欲しい、という欲求の現れであり、プライドが高ければ高いほど、それがへし折られて、傷ついた際の気分の落ち込みも激しく、自信や自尊感情もより低いレベルに低下したままとなる、というようにも考えられるからである。

プライドが傷つきやすい体質の人が、自信、自尊感情が低い状態が続きがちとなるのであり、彼らの大元のプライドは高い場合が多いのではないか?



ニートや引きこもりの若者の多発といった現象も、そもそも他者の視線の流れている空間に進み出て、そこで何らかの失敗をして物笑いや好奇の目の対象となることで、高いプライドが傷つくのを恐れるために、自分から外に出て行動を起こそうとせず、内に引きこもっているのだとも考えられる。その点、ニートや引きこもりは、他人の視線を気にする「高プライド社会」の必然的産物だと言える。


日本人がプライドが高いのは、権威主義者であることの現われでもある。自分を権威付けたがるのは、自分を高く位置づけたがることと関係しているからである。日本人が、結婚見合いとかにおいて、学歴や資格などで自分のことを箔付けしたがるのも、権威主義の現れである。

日本人と権威主義のページへのリンクです。


プライドが高い人は、王室、皇室、貴族、華族といった旧来高貴とされた存在と自分を結びつけ、一体化させて考えようとする。あるいは、それら高貴な存在によって担われた過去の社会を栄光ある望ましいものとして考え、復古を目指そうとする。そう考えることで、自分も高貴な存在の一翼を担うことになると考え、プライドを満足させることができる。

ロイヤル、皇室好きな女性や、右翼は、高プライド社会の申し子であると言える。


2006 大塚いわお

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