日本教育における試験制度の改革について
-誰でも好きなときに受けられる能力資格試験導入の提案-


(c)2002.06 大塚いわお


日本の小学~大学の試験制度は、特定の学校に合格するためという現状から変わるべきである。試験の目的が、本来あるべき学習の節目毎の能力測定という目的から大きく逸脱して、よりよい上級学校合格のための受験そのものになってしまっているからである。そのため、生徒にとっては、自分の転変する外部環境に適応して生きていく能力を向上させるという教育本来の目的ではなく、上級学校に入ること自体が自己目的化してしまっている。

今後の試験は、純粋に生徒の学力を測定し、誰でも年齢に関係なく、好きな時に何回でも受けられるようにするなどオープン化して、その数値を公的資格として就職などに活用できるようにするための試験へと変わるべきである。ちなみに、試験の数値が公的資格として利用できそうな(あるいは、既に利用されている)従来の試験としては、大学入試時のセンター試験、英語のTOEIC試験のようなものがある。

以下では、小中高校~大学レベル(広く社会人も含む)での試験制度について、現状と筆者の改革案を、表形式で対比させて述べている。

現状 筆者の改革案
[1]能力を表す指標 能力を、生徒が合格した学校の名前(ブランド)によって測る。
(問題点↓)
(1)生徒の入学した学校名が分からないと、生徒の能力を知ることができない点で手間がかかる。また、学校名が能力を測るキーとなるため、
・学校のブランド信仰が生まれ、有名校に入学するのが、必要以上に大変になる
・学閥が発生する
といった副作用を生み出す。
(2)学校の人気度の変動などにより、合格に要求される能力水準が変動してしまう。
(3)生徒の能力を、生徒の受験した学校外からは客観的に捉えることができない。あえて言えば、その学校に合格するための偏差値をもって客観的数値とすることもできるが、公的裏付けのある数値ではない。また、生徒の能力を知るのに、学校名を検索し、次にその学校の偏差値を知るといった感じで2段階が必要である。
生徒の能力を、学校名といったような客観性や評価の安定性に欠ける指標ではなく、日本中~世界中どこでも通用する能力証明書を生み出す形で測る。
能力を、英語のTOEIC試験のように、学校からは独立した日本全国~世界的な試験機関によって、統一された到達レベル毎にランク付け、ないし点数の形の形で測定する。
学校の名前と、生徒の能力とを切り分け、互いに独立させる。
(改良点↓)
(1)出身学校名に囚われずに、生徒の能力判断を行うことができる。
(2)生徒の能力水準を測る指標が安定している。
(3)生徒の能力を、誰でも開かれた公平な同一の指標で見積もることができる。
[2]試験回数 一生を通じての受験機会は、小学→中学、中学→高校、高校→大学の数回しかない。また、それぞれの試験の回数は、1つの学校に付き、1年に1回のみが普通である。
(問題点↓)
(1)試験に失敗が許されず、悲壮な覚悟で1回きりの試験に臨まなければならない。
(2)何度も試験に失敗すると、それだけでその生徒の評価が下がってしまう。
試験は、誰でも(社会人を含む)、いつでも好きなときに、好きなレベルのものを何回でも受けられるようにする。
(改良点↓)
(1)試験の機会が増えて、1回失敗しても、再受験してすぐ取り戻すことができる。試験を受けるのが楽しく、リラックスできるようになる。
(2)生徒が自分の欲しい到達レベルにどの程度達しているかどうかを判定するのが目的であり、何回受けたかではなく、今何点なのかが重要である。受験回数は問題とならない。
[3]試験のタイミング 本格的な試験は、上級学校に入学する時のみである。いったん入学してしまえば、卒業時は多少成績が悪くてもトコロテン式に出られる場合が多い。その結果、生徒がいったん望みの学校に入ってしまうと、そこで勉学の目的を失って、貴重な時間を無駄に過ごすことにつながっている。
(問題点↓)
(1)試験のタイミングが入学時に限られている。
(2)卒業時の学力を問題にしないため、在学中、生徒があまり勉強しない。
試験結果は、もちろん入学時の資料としても使えるが、むしろ、在学中や卒業時に、それ相応の能力を持っているかどうかを調べる能力検定として使える。また、学校を既に卒業した社会人が、今自分がどの程度社会に通用する能力を持っているかその都度確認するためにも使えるようにする。
大学卒業レベルでは、従来の国家公務員I/II種試験の内容に当たるものを科目別に独立して実施すればよい。
(改良点↓)
(1)試験のタイミングは、生徒の受けたいときならいつでも、任意である。
(2)在学中の期末試験や、卒業検定の形でも使えるため、在学中、生徒が勉強するようになる。
[4]受験資格 試験は、生徒が受ける学校(例えば大学)より一つ下の学校(高校)に入学して修了していないと(ないし修了見込みでないと)受けるのが難しい。大学受験では、高校を出ていなくても、いわゆる「大検」で受験資格が得られるが、正規でない裏コースと見なされている。試験(例えば高校)は、一定の年齢(15)にならないと受けられない。
(問題点↓)
(1)学校にきちんと通わないと受験しにくい。
(2)生徒に能力があっても、一定年齢に達するまで受験を待たなければならない。
試験は学校を出ていなくても、学校に通わなくても、独学でも自由に受けられる。自分の自信のある分野なら、何歳でも(幼くても、高齢でも)年齢に関係なく、好きなレベルの試験を受けられる(飛び級、年齢制限撤廃に相当)。
学校の存在意義は、試験で、生徒が自分の望むレベルの点数を取るために効率よく計画的に勉学に励めるように、親身になって指導する点にある。独学時の効率を上回ればよい。
(改良点↓)
(1)学校通学に縛られずに、自分の今まで伸ばした能力を開かれた社会に向けて自由にアピールすることができる。
(2)能力ある生徒なら、年齢に縛られずに受験できる。
[5]合格の概念 一定以上点数を取って「合格」する必要がある。
(問題点↓)
(1)試験で点数を何点取ったかが余り問題にされず、「取る点数は何点でもよいから、とにかく合格すればよい」と短絡的な目標設定に陥る。
(2)合格ラインとなる点数が学校や試験毎に変動し、不明確である。
「合格」の概念が存在しない。何点取ったか、点数自体が評価される。
(改良点↓)
(1)点数によって、今自分が何点取っているから能力的にはどのレベルにいる、という事実を認識することが最終目標となる。自分の現在の能力レベルを客観的に知るという、学習到達度学習に向いている。
(2)試験の点数は、英語のTOEICのように、個別の試験問題のレベルを揃えることで、学校を超えた普遍的な値で、毎年安定させることができる。
[6]試験レベル設定 入学試験の段階毎に、中学入学、高校入学、大学入学というわずか3つの互いに大きく隔たった到達レベルについて、各教科ともレベルを揃えて受けなければならない。 各教科毎に、到達レベルを揃える必要はなく、例えば、高校生が、得意な科目は大学入学レベルまで背伸びして受験、不得意な科目は中学入学レベルをもう一度受験といったことが可能となる。
到達レベルの数を、従来、中学~高校間など大きく隔たっていたレベル間に新たに中間レベルを設けることにより増やして、レベル毎の格差を減らし、スムーズに連続的に上級レベルに到達できるようにする。
[7]試験分野 自分の興味のない、あるいは社会に出てからは不必要となる分野の試験もワンセットで強制的に受けさせられる。 自分の好きな、社会に出て役立つ分野の試験を選んで受けることができる。官庁・企業側から就職時に必要な科目の点数を要求され、それに応じて、予め必要な科目について、必要以上の点数を取るように努力すればよい。
[8]資格としての利用 試験の結果は、原則として、入学希望の学校に対してのみ通用する。偏差値の高い学校が就職時など非公式に「指定校」の扱いを受けることもあるが、公的な裏付けがある訳ではない。 自分の受けた試験の点数が、そのまま自分の現在の能力を表す公的な資格として、社会に通用する。


以上の筆者の改革案において、従来、日本の公教育を独占してきた、公立・私立学校の果たす役割は何であるか?それは、公的能力資格試験の「予備校」である。公的資格は学校に行く行かないを問わず、能力ある者全てに与えられる点、従来の学校による教育機会の独占はなくなる。要するに、学校には行かなくてもよいのである(従来は、行くことが当然であり、行かない生徒は、その能力に関係なく、一律に後ろめたい気分にさせられていた)。ただし、行った方が、専門の教師が付く分、より効率よく学習を進めることができ、お得であるということになる。優れた学校とは、その学校に通う生徒が公的能力資格試験で高い点数を取れて、人間の生存に必要な能力を十分高いレベルで持っていることをアピールできる学校のことである。

従来、予備校は、あくまで公教育を補完するための日陰の存在であった。しかし、予備校は、同時に、日本の学校が表向きは認めない偏差値による生徒の成績毎のランク付けを行い、生徒たちを、それぞれの能力にあった水準の上級学校に振り分けて進学させるために欠かせない存在でもあった。要するに、生徒たちの能力を日本全国レベルのグローバルな視点で査定し、その結果を公表しては生徒同士を競わせる、重要な存在であったと言える。

上記改革案では、学校は、公立・私立、公認・非公認を問わず、全て公的能力資格試験で満足な点数を取れるようにするための予備校と化すことになる(学校の「総予備校化」)。今まで日陰扱いだった予備校が、一躍日向に躍り出ることになる。

しかし、学校の総予備校化といっても、それは従来の予備校とは本質的に異なっている。従来の予備校が担ってきた偏差値教育といわれるものの本質は、成績の相対評価であった。偏差値は、他人様と比べて自分は優れている、劣っているという評価を下すためのものである。競争は、他人を蹴落として、自分が相対的に有利な立場に立つための手段であった。上記改革案では、成績は他人と比べてではなく、あくまで試験を受けた本人が厳しい自然~社会環境で生き延びることができる手段を持つ度合いを示す、絶対的な尺度として用いることを目指す。公的な能力資格試験の点数は、他人と比較するためではなく、あくまでその時点での自分の能力水準を測る目安なのである。その点で、新しい「予備校」が目指すのは、成績の絶対評価である。もっとも、就職時などでは、官庁・企業から求められるスコアが高い順に生徒の就職が決まるであろうから、その点で、絶対評価の点数を、相対評価にも転用することはできる。絶対評価は、相対評価を兼ねることができるが、その逆はできない。

なお、上記公的資格には、道徳とかも含まれることになる。本来点数付けが難しいと考えられがちであるが、基本的に道徳の資格試験というものは、人々が地球上で暮らしていく、生き延びていく上で望ましい価値をどの程度よく知っているか、また、自分の身に実際につけているかを測るものであると考えられる。道徳の正しさは、先生が言ったから正しいのではなく、生徒本人が、地球上に生命体として存続していくために役に立つから正しいのであり、そういった人間生存の役に立つ価値観を到達度毎にレベル化して、生徒自身が積極的に上位レベルを目指すように仕向けるのが望ましいであろう。

上記改革で、政府がなすべきことは、高さの揃った能力水準測定を安定して行えるためのの試験問題出題環境の整備である。毎回水準をできるだけ揃えるためには、予め蓄えておいた、予め同一水準にあることを確認してある問題群のプールから、コンピュータを使ってランダムに問題を抽出して出題する手段手段などが必要となる。

また、従来の学級という集団を単位とした生徒管理から、生徒個人毎にバラバラに独立した到達度レベル管理が必要となる。これを実現することが、従来の学級という枠に生徒を閉じ込めて画一的に管理するウェットなやり方を乗り越えて、新たに個人の個性や自由を認める、健全なドライさを備えた学校生活につながると思われる。

こうした生徒の能力面での到達度の多様さを許容するためには、同時に、個性化がもたらす生徒個人の、自分は人とは違うんだ、独りぼっちなんだという孤独感を解決する方策が必要となる。そのために、新たに国際レベルでの情報通信網(例えばインターネット)を利用した、従来の(特に小学校~高校レベルの)狭い地縁レベルでは得られない、自分と共通の興味や到達レベルを持つ仲間(年齢、性別、職業など様々)とのコミュニケーション、連帯意識、心理的な支え合いが不可欠となると考えられる。



(c)2002.06 大塚いわお

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