「女らしさ」はいけないか?

-日本における女らしさの否定についての考察-


 
現在の日本では、男性が女性に「女らしくあれ」を口にすると、性差別だとかセクシャルハラスメントにつながるとして女性から責められる。しかし、そんなに女性が「女らしい」ことが悪いことなのかどうかと言えば、筆者は大きな疑問を抱かざるを得ない。

「女らしさ」を悪く言うのは、
1)人々が取るべき態度についての現在の世界標準が、欧米社会のドライな男性的態度にあり、ドライな男性的態度がより望ましい、好ましいと、人々に映るからである。

ウェットな態度が女性的と見なされていることを検証した文章へのリンクです。

ドライな態度が世界標準と見なされていることを検証した文章へのリンクです。

ドライな男性的態度がより好ましい、望ましいと考えられていることを検証した文章へのリンクです。

2)日本女性による、今まで男性の拠点だった職場への進出=社会進出指向にあると考えられる。

従来、「女らしさ」=家庭の中にとどまって、外に出ないこと(外に出て働く男性に対して、母艦の役割を果たすこと)、と短絡的に捉えられてきた。この観点からは、それが女性が新たに進めようとしている職場進出へのじゃまになるとして敬遠されているのであろう。

女性が家庭の中にとどまる必要があったのは、家の中の方が外で働くより安全であったからというのと、もう一つは、乳児の養育や世話で両親のどちらか片方が家に残る必要が出た場合、母乳が出たり、子供が産まれる以前に子宮で子育てをしていたのが女性だということから、女性の方が子供の養育に対して親和的であるということで、女性=家庭という結びつきが自然とできたと考えられる。

現代日本では、以下の理由から、女性が職場進出(社会進出)を図ろうとしている。
1)治安がよくなって、家の外でも安全になったこと、保育園などの子供養育施設が整備されつつあることから、女性=家庭の結びつきは弱くなりつつある。女性は、家の中に必ずしもいなくてもよくなった。
2)従来、日本の女性は主婦として、家事と子供の教育を通して、自己実現を図ってきた。しかし学校制度の充実により、子供の教育に手がかからなくなった。また家電製品の普及により、家事に割く時間が大幅に減った。これらの理由のため、何もすることがないアイドリング時間が増える結果となり、自己実現のターゲットを家庭以外に求める必要に迫られた。

※なお、従来、女性の社会進出の理由として、女性自身の、男性の収入に頼らない経済的自立への指向というのが散々言われてきた。しかし、もともと日本の家庭において、経済(家計)面での管理権限は女性が握っていることから、経済的に依存・従属関係にあるのは、女性に給与をいったん全て取り上げられ、取り上げられた金額の中から改めて小遣いをもらう男性なのではないかと考えられる。すなわち、女性=経済的支配、男性=従属の関係が成立していると考えられる。支配している側と従属している側とがどちらが自立しているかと言えば、明らかに支配する側の女性であろう。

従って、「女らしさ」=家庭的という見方に囚われている限り、女性は、「女らしさ」を排撃したくなると考えられる。
 
筆者は、真の「女らしさ」は、もともと家庭的なことそのものではないと考える。 「女らしさ」とは、自分のことを貴重な大切なものとして他者よりも優先して守ろうとする「自己保身」にある。

真の女らしさとは何か説明した文章へのリンクです。

家庭以外の場所が安全になり、そこでも活躍できることが分かれば、そこに進出しようとするのは女性にとって当然のことである。今までは家庭においてなすべき仕事=家事はたくさんあったが、今は家電製品などの導入で省力化が進み、女性たちの活躍の場は狭まっている。家庭は自己実現の場としては物足りなくなったといえる。

ただし、女性が職場進出しても、男性のように高い地位につくことを指向するとは必ずしも言えない。

なぜなら、女性は、自己保身のためには、失敗の責任を取って危ない目に会うことをできるだけ避けようとする「安全第一」「責任回避」主義者だからである。女性は、自分からは受動的に行動することで、能動的に行動した結果生じる行動に対する責任を取らないようにする。また、社会的に高い地位につくことに伴って生じる意思決定上の責任を取ることを嫌って、自分からは責任ある高い地位につくのを避けて、男性にその役をやらせようとする。

日本女性が社会的に高い地位についていない現状を見て、女性差別だと唱えるフェミニストは多いが、実際のところ女性は高い地位から男性などの外的圧力によって遠ざけられているために高い地位につけないのではなく、むしろ「高い地位につくことによって生じる社会的責任を回避するために」「社会的に高い地位につくことを自ら進んで回避している」のである。欧米社会のフェミニストのように、失敗時に大きな責任を取らされ、社会的生命を失うことを前提として、女性を高い地位につかせることを奨励すること自体、女性の本性に反する異常な考え方である。

女性が社会的に高い地位につくことを自然なものとし、女性が社会的に高い地位を積極的に追求させるようにするには、失敗時にその責任を上下左右の隣接する地位のメンバーへと分散させること、責任を周囲との連帯責任とすることで、本人の取らなくてはいけない責任を軽くすることが求められる。

社会的地位が高くない、責任を取る立場にいないからと言って、女性の社会における支配力が小さいとは見なせない。特に日本などの農耕社会では、女性は、自らは男性の母親役を取る(息子の母親となる、妻として夫の母親代わりとなる)ことで、男性を自分に対して心理的に依存させた上で、自分の思うままに操縦して社会的に高い地位を目指させ(競争させ)、高い地位についた男性に対して自分の思い通りのことをやらせようとする。日本においては、男性は、どんなに高い地位についていたとしても、女性の(特に母親の)かいらい・ロボットと化しており、女性の支配下にある。

こうした女性の性格と日本人の国民性とがよく似ていることを 筆者は文献調査で確かめた。日本はもともと女性的な、と いうか、女性優位の、男が虐げられている社会=母権制の社会と言える。

日本社会の女性的性格について説明した文章へのリンクです。

女性が優位の「女らしい」「女々しい」日本社会では、女性は、社会的な責任は取らず、 かつ実質的な支配権は握るという「無責任支配」の体制を確立していると考えられる。

そういう点では、女性自身による「女らしさ」の否定は、せっ かく自分が社会の中で支配力のある有利な状態にあるのを進んで止めようとすることであり、馬鹿げた自己否定以外の何者でもないという感じがする。
 
特に問題なのは、女性が、男性を「強い」「頼りになる」とおだてると同時にその裏ではしっかり、男性の生活全般を母親の如く隅々まで支配・コントロールする(家計管理の権限掌握などはその代表例と考えられる)「アメとムチ」の使い分けを行っている点である。
 
男性が家庭に帰らないで、職場に長くい続けるのも、家庭が女性の支配する場であり、自分とは異質の雰囲気になっているのが不愉快だからと言える。

家庭における女性(母親)支配が男性を家庭から遠ざけて職場に固定化し、それが家庭の外に出て職場進出しようとする女性の行く手を阻むという、女性にとっては複雑な仕組みになっている。

その点、女性がスムーズに職場進出するには、家庭における自分の主導権を放棄して男性と対等化すること、家庭において男性の居場所を確保することを容認することが求められる、と言える。

なお、日本における職場の雰囲気自体は、集団主義、プライバシーの欠如、対人関係面での調和や前例・しきたり偏重といった女性向きのものとなっており、本来は男性よりも女性の方が、能力を発揮しやすい環境にある。

確かに職場に数の面でたくさんいるのは男性だが、彼らは母親や妻によって、男性本来の個人主義、自由主義、独創性の発揮といった行動様式を骨抜きにされ、すっかり女性化した「母親臭い」存在と化している。そういう点で、男性のたくさんいる日本の職場は、もともと女性とは相性がいいのである。


(c)2001.11 大塚いわお

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