囲う男、閉じ込められる女
-女性の自立、社会進出が進まない本当の理由-

2004.8 大塚いわお


男性は、女性を、自分の世界よりも内側に閉じ込めておきたがるものである。

男性は、女性が自分のところから出て行ってしまおうとするのを阻もうとする。要するに、女性の男性からの自立を阻もうとする。

この事実は、生物学的貴重性の性差の面から説明できる。

生物学的貴重性と性差についてのページへのリンクです。

男性は、危険に直面する、自分の居場所の内側に女性を守る「ソトの性」である。男性は、粗末に扱われ、大切にされない点、女性よりも、社会的に不利な扱いを受けている。

女性は、外側を、男性に守られる形で、危険に直面しないで済む「ウチの性」である。女性は、大切に扱われる。

従来の学説では、例えば、「サムソン-デリラ コンプレックス」(E.Margolies,L.VGenevie,1986)による説明のように、男性は、女性よりも強くありたい、女性を支配したいから、女性の自立を阻むのだとされてきた。

しかし、実際のところは、男性が、女性の自立を阻むのは、男性が自ら守る対象がいなくなるのを恐れるから、というのが、本当のところではないだろうか。

要するに、男性は、女性に、自分の設定した枠の外に出られると、女性を自分の内側で守る、庇護するという自分の存在意義がなくなってしまうから、女性が自分の枠の外に出る形で自立するのを拒むのではないかと考えられる。


男性が、女性を自らの設定枠内に閉じ込めようとすることで、女性は、男性に守られて安心して暮らせるという安心感と共に、それと矛盾する、男性に閉じ込められているという閉塞感を感じる。言い換えると、女性は、「籠の中の鳥」みたいな気分になって、男性の押しつける、安全だが、閉じた世界から解放されたい、といつか考え始めるようになる。

そうすることで、女性は、男性よりも、外の世界に出たくなる。

女性による、いわゆる「社会進出したい」「自立したい」という主張の本音は、女性が男性により閉じ込められた世界から解放されたいというところにあり、これこそが、実は、「(男性からの)女性解放」運動の真実というか、中心的な主張なのではないかと考えられる。

従来、「女性解放」運動は、「女権拡張(フェミニズム)」運動とほとんど等価と見なされてきたが、実は、両者は、別物であると考えられる。というのは、日本のように、母親が強い、社会が女性の色に染まった母権(女権)社会においても、「女はウチ、男はソト」の図式が未だに強固に成立しており、その点、「女性の男性からの解放」は進んでいない。

「男性が女性より強くありたいから、女性を恐れて閉じ込めたがるのだ」という従来の(「サムソン-デリラ コンプレックス」のような)主張は、女性より男性が強い欧米社会固有の、家父長制社会にのみ当てはまるものである。あるいは、欧米におけるフェミニズムでは、女権拡張(弱い女性の権利拡張)と、女性解放(女性の男性からの解放)が一緒くたになって主張されていると言える。

日本においては、女権拡張運動は、「女性は弱くない」ので、成立しないが、「男性によって「ウチ」に閉じ込められるのはイヤ」という、(男性からの)女性解放運動は、十分成立する。


「(男性からの)女性解放」運動は、男性が、生物学的により貴重な女性を守るという、「男=ソト、女=ウチ」という図式が全世界的に成立する以上、世界中に普遍的に起こりうるものである。


「女は家庭(ウチ)、男は仕事(ソト)」という、性別役割分業を肯定し、それにこだわる男性は、女性に対して快適な環境を、自分一人で一通り提供して、女性を感心させたいという自負が強く、それが十分可能であると考え、自分の能力に自信があり、それを自慢したいと考えている。また、女性を自分の枠の中にずっと置いておき、外に出したくない思いが人一倍強いと言える。

こうした男性は、女性によい暮らしをしてもらいたいと思う点、とても女性想いなのであるが、一方では、女性の生活の自由(外に出ようとする自由)を縛って、自分の手の届く範囲に行動を制限しようとする点、女性にとっては、閉塞感を強める原因となる。


男性が、給与稼ぎにこだわるのは、女性に快適・安全な生活空間を提供するに足る、十分な経済力や給与を稼ぎだす能力を持っていることを、女性に認めてもらい、自分が「頼りがいのある男」であることを確認したいからである。

女性に収入の道を与え、経済的に自立させると、女性は、男性の設定枠の外に出て行ってしまう。これが、男性が、女性の経済的自立を望まない本当の理由の一つである。

男性は、女性に贈り物をして、経済力があることを見せて、女性の関心を引こうとする。一方、女性は、そうした男性の品定め、評価をして、一緒に暮らすだけの価値がある男性かどうかを決定する。その点、「男性=貢ぐ性、女性=もらう性」であり、女性の方が、上位にあると考えられる。

そのように、女性が男性の経済力を当てにすることは、実は、男性にとっては、女性が自分の内側に止まってくれることを意味して、都合がよいのである。


女性が男性に閉じ込められるということは、女性がウェットで、男性がドライであることとも関係する。

性格・態度のドライ・ウェットさについての説明ページへのリンクです。

なぜ、女性がウェットで、男性がドライかということについての、生物学的貴重性との関連による説明は、以下の通りである。

ドライな男性は、「守る性」であり、自らの分布領域の内側に、自ら体を張って、安全で快適な領域を形成し、そこに女性を閉じ込める形で住まわせる。自らは、危険領域との境界に広く分散して、危険な外敵の侵入を阻止すると共に、絶えず、安全・快適領域を広げようとして、どんな危険が待ち構えているかも知れない領域への探検を繰り返す。

男性がドライなのは、広域に拡散して分布して、内側の女性が住む領域へ外敵が侵入するのを防ぐとともに、自分たちの適応領域を絶えず広げようとして、未知領域へ進出を図ろうとするからである。

一方、ウェットな女性は、「(男性によって)守られる性」であり、一定範囲の狭い閉じた安全・快適領域に寄り集まって、互いに一体化・密着して過ごす。女性が心理的に、互いの同調、一体感を、男性よりも偏重する、ウェットな心理を持つ原因は、この辺にあると考えられる。

この点、ドライな男性が、外側に、ウェットな女性が、内側に分布する。
あるいは、男性は、外側に分布する必要があるからこそドライであり、一方、女性は、男性よりも内側に分布する必要があるからこそウェットであるとも言える。


男性が、女性を、自分より内側の狭い領域に閉じ込め、束縛して、外出する自由を与えないのは、男性が、女性を守っているという実感が欲しいからである。男性は、女性を護衛する(エスコートする)役をきちんと果たしていると思いたがっている。その点、男性には、「(女性を)護衛(する)本能」が備わっていると言え、それは、女性に備わっている「自己保身本能」と対になって成立する。

男性が、女性を、自分の内側に閉じ込めるのは、女性に安全で、快適な環境を提供しようとする意図に基づくものである。女性に安全、快適な環境を提供しないと、女性にそっぽを向かれたり、振られたり、逃げられてしまうのである。その点、女性を単に強制的に閉じ込めているというよりは、「この中にどうか入っていて下さい」という懇願とも取ることができる。

しかし、それは、女性にとって、強い閉塞感を感じさせるもととなり、「(男性からの)女性解放」を女性が求めるきっかけを作る。

生物学的貴重性という点では、本来、より貴重な女性の方が、より上位で、その点、男性よりも支配的な立場に立っているのである。しかし、男性に閉じ込められている点、女性は、囚われの身であり、言わば、宝石箱に閉じ込められたダイヤモンドのような「囚われの貴人」なのである。

女性の「社会進出」は、女性が、男性の元を抜け出して、自由に行動できるようにすることで、その点、男性から「自立」する、男性の設定枠を超えることを意味している。これは、自らの内側に女性を囲っておくことで、自分の護衛欲求を満足させようとしている男性にとっては脅威である。

また、女性が閉じ込められている空間は、(男性が分布するところの、危険が一杯な空間に比べて)より安全、快適であり、その安全性、快適性は、男性の犠牲の上に初めて成立しているのである。そういう意味で、「自由」と「安全」は本来、両立しないのである。

つまり、自由さを求めるには、自分自身による、危険領域への露出、危険な外敵との直接対峙を覚悟しなければならず、一方、安全なままでいるためには、(男性に)閉じ込められた状態を容認したままでいる他ない。安全性、快適性が欲しければ、ある程度、男性の決めた制約を受け入れなければならないことになる。


男性は、女性に対して、経済的余裕やバックアップを貢ぐ、もたらす性であり、「貢ぐ、養う性」である。

一方、女性は、男性に「貢がれる、養われる性」であり、自分では稼がずに、経済力のある男性を選ぼうとする。

経済的な豊かさこそが、男性にとって、安全、快適空間を提供維持するためのバックボーンとなり、安全、快適空間を提供する能力レベルを測定する指標となる。

そこから、女性に経済的な豊かさを与えることが、男性自身のステータスだという考えが生じる。


女性の男性に対する存在意義というのは、基本的に、女性が自分の内側にただいてくれるだけでOKというものであり、存在そのものに価値がある。男性にとっては、女性が自分の内側にいないと、そこがもぬけの殻になってしまい、寂しいだけでなく、本来守るべき対象が欠如している点、自らの存在意義が危うくなる。

あるいは、女性は、男性にとって、心の安らぎ、オアシスである。外敵に対応しなくてはいけない男性の気疲れ、緊張を癒してくれる存在である。女性は、看護のように、傷ついた男性を治療し、心理的に支えとなる。あるいは、炊事、栄養士のように、あるいは、職場で「お茶を出す」行動に代表されるように、男性の水分、栄養分の補給を行う。こういった女性の役回りは、前線の外敵に立ち向かう戦闘機役の男性を後方で支援し、バックアップし、補給を行う、空母の役回りである。

一方、男性の女性に対する存在意義というのは、前線に戦闘機として、外敵に立ち向かうことで、女性を守り、女性に安全で、快適な生活条件を提供するというものである。快適、安全に暮らすには、経済的な豊かさが欠かせない。女性は、男性によるこうした快適、安全空間の提供を当然のものと思い込んで、男性に寄り掛かってきた。これが、女性がいつまでも自立できない真の原因である。

「囲う男」の正体は、「守らされる男」とも言える。要するに、男性は、女性に快適で安全な生活を提供できる能力がないと、「ダメな男」と言われて、すぐ振られてしまったり、相手にしてもらえない。

男性が、必死になって女性を守っても、あるいは、女性に快適、安全な暮らしを提供しても、当然視されるだけである。自ら進んで、問題に立ち向かい、困難な事態を切り開かなければならなかったり、危ない目に会ったり、命の危険にさらされるのは、いつも男性側であり、そういう点では、男性に損な役回りが回ってくると言える。しかも、こうしたことに対処できないと、女性から「いくじなし」とか言われて非難されてしまうのである。

女性にとっては、男性は上記のことは「できて当然」と思われる。その点、男性は、女性の提示するハードルを唯々諾々として乗り越えなければならない下僕のような側面を持つ。あるいは、男性は、女性に自らの女性を大切にするという姿勢を伝えるために贈り物をしなければならないが、これも、日本の若い男性によく見られる、女性に一方的に貢がされる「貢ぐ君」、女性の手足としてこき使われる「アッシー君」になってしまうことにつながる。


男性は、女性を自分の所有物のように、しばしば扱う。「オレの女に手を出すな」とかいう表現がそれである。女性とモノとは、男性にとって、自分の設定した枠内に入れて守る対象という点で共通している。


日本では、結婚や出産を機に、女性が会社を辞めて家庭に入るのが望ましいとされてきた。

家庭的というのは、男性の枠内で、すなわち、男性が提供する、経済的なバックアップを含めた、快適、安全な生活の枠内で、生活するのに満足するタイプということになる。

女性がお茶汲みで昇進しないまま退職するというのも、ある面、男性による護衛、設定の枠内で生活するのに満足して、その枠をはみ出ないようにしますよ、という意思表示と言える。

男性は、女性に、自分の領域の内側にいてもらいたがる。それは、女性を守っているという実感が欲しいからでもあるし、あるいは、前線に赴く戦闘機としての自分を後ろから支えてくれる空母、母艦の役回りをしてもらって、心理的に依存したいからでもある。

女性側が、経済的自立を得にくいのも、何も言わなくても女性に安全、快適空間を提供してくれる男性についつい頼ってしまう、当てにしてしまうからだと言える。

女性は、快適、安全な生活を男性に提供されて、それに満足し、男性に乗っかった形で生活をする。従来、専業主婦と言われてきた生活がこれに当てはまる。女性は、男性から経済的な支えを得られるので、自分からは稼ぐ必要がないし、稼ごうと思いにくい。これが、女性による職場進出が遅れる真の理由である。

こうした、女性による、自分からは男性の設定枠の外に出ようとしない生活は、一見、男性に支配されているように見える。これが、女性は男性の枠の外に出て自由に活動すべきだとする女性解放運動の論拠となっていると考えられる。


男性が、自分より優れた学歴や能力を持つ女性と結婚しようとせず、劣った女性と一緒になろうと、劣った女性のみを受け入れようとするのは、なぜであろうか?その理由は、自分より学歴や能力が優れた女性は、その活動領域が、男性自身による設定枠内に収まり切らない。すると男性は、その女性を、自分では守りきれないとして拒絶したくなる。あるいは、女性が、自分の守る能力を超えた存在として、自分の護衛能力に対する自信を傷つける存在として、一緒になるのを恐れる。(注)

(注)あるいは、日本のような母性支配社会においては、次世代の母子連合体を担う女性が、自分たちよりも優れていると、彼女とその子は、前世代の母子連合体(男性とその母親)による支配を脅かす存在となり、反抗されると太刀打ちできなくなる。そのため、自分より優位の立場から結婚相手の女性が来るのをいやがる傾向がある。


これまでの職場での女性の役割というのは、「職場内家庭的」「職場内のウチ」とでも言うか、「後方支援的」とでも言うか、秘書、お茶汲み、看護といった、仕事の前線に飛び出して行って、傷ついて戻ってくる男性たちをケアする役回りがメインであった。この点、職場においても、女性たちは、外部に赴く男性たちの内側、枠内で生活している「閉じ込められた存在」と言える。


女性による男性の設定枠を超えた活躍というのは、ある意味、生物学的に守られるべき女性が、男性による護衛の前線を超えて、危険領域に直接露出してしまうことを意味する。そういう点で、女性の男性の領域を超えた活躍、社会進出というのは、保護されるべき女性が危険な外敵に直接身を晒して死んでしまい、数を大きく減らす可能性を増大させるため、種の保存に直接深刻な影響を与える可能性を持っている。

その点、女性が「社会進出」して、能力を発揮したいという欲求と、男性の女性を守りたい、自分の枠内に女性を抑えたいという欲求という、相反する欲求を同時に満足させる解を見いだすことが必要である。


女性の指向しがちな環境というのは、安全、安心で、甘い、温かく穏やかで、快適で気持ちいい、といった生存に有利なものであり、これらは、男性の犠牲、労苦の上に成り立っていることが多い。

一方、男性の指向しがちな環境というのは、寒かったり、冷たかったり、ストレスのたまる、ハードで不快な、疲れる、辛い、外敵が襲ってくるといった生存に不利な環境であり、これらは、自ら本能的に進んで向かっているという以外に、快適な環境下にい続けたい女性たちから無理やり押しつけられている面がある。護衛や防衛といった、守りの役目、挑戦、戦闘、撃破といった攻めの役目が、男性の指向しがちな役目であり、そこでは、アドレナリン全開状態が出現する。


女性たちは、男性によって提供される心地よい生活が、男性の多大な労苦の上に成り立っていることを忘れ、「閉じ込められている」という閉塞感、被害者意識、満たされぬ感覚を、一方的にむやみに膨らませている。

要するに、女性たちは、男性による安全、快適な「温室生活」の提供を当然のものと思い込み、それに甘え寄り掛かっているのである。そして、「温室生活」や貢ぎ物、贈り物としての給与や、経済力の裏付けとなる貴金属の提供がないと、怒り出し、男性を見捨ててしまう。それでいて、一方では、その「温室生活」が持つ、閉ざされた側面に敏感に反応し、男性に対する不平不満を募らせるのである。

女性たちによる、こうした快適生活享受と、それに満足しない一方的な被害者意識の拡大は、女性のために、せっかく快適な生活空間を作り出そうと汗水たらして努力している男性の立場や気持ちを考えない、尊大で、傲慢不遜な行動と、男性側には映る。これが、「女性解放運動」に男性が批判的になる理由である。

ほとんどの男性は、捨て駒として、数少ない上位者に頭をぺこぺこ下げて自尊心を傷つけられつつ、その中で必死に働き、稼いでいるみじめな存在である。一見支配者に見え、うわべはいい思いをしているかのように見える上位者の男性も、実際は、周囲は仮想敵ばかりで、心休まる暇がない孤独な存在であることが多い。こうした男性の労苦に思いを致す女性が少ないのではあるまいか。


「閉じ込められた」女性の社会進出を促す解決策としては、どうすればよいか?すなわち、女性が、自力で稼いで働くことで、専業主婦以外の自己実現を果たしながら、自力で快適に暮らすにはどうしたらよいいか?

一つは、生態学的な分布領域における男性のパイを食うという戦略が考えられる。今まで、自分たちの外側といっても、比較的内周寄りで相対的に安全なところにいた男性を追い出して、代わりにその領域に進出するというものである。つまり、相対的に快適で、労力のあまり要らない、例えば、腕力不要の建機操縦などの業務に、男性の代わりに入り込むということである。

そうすることで、女性たちは、自ら活動可能な分布領域を広げることができ、より広範囲な活躍をすること=「社会進出」が可能となる。なおかつ、自分たちの外側、外周部は、男性に守らせることで、自分は安全を今までどおり享受できる。その分、男性は、より苛酷な前線活動に追いやられることになる。


男性が女性を囲い閉じ込めるというのは、社会全体としてそうなっているということもあるし、個々の男女のペアでもそうなっているということでもある。

個々の夫婦でも、夫は、妻のいる領域の外側、表側にいて、妻を外側から囲うことで、家の中=巣の中=奥に閉じ込めることになる。


男の領域(外側の危険領域)に女が入り、女の領域(内側の快適領域)に男が入ることで、男女が相互の領域を完全対等に分け合うのが、いわゆるジェンダーフリーである。しかし、これは、男が守り、女が守られるという、精子・卵子システムに基づく遺伝的性差、生得的傾向に反逆している。

そこで、この場合、女性(男性)がどの程度訓練によって、身体的に、あるいは心理的に、男性(女性)の性質を持つことができるか、実験によって確認する必要がある。不可能であることが分かった場合には、遺伝子操作による、遺伝的性差の解消を狙った人体改造が必要となる。

遺伝的性差をなくすには、卵子、精子を体外保存、複製するなり、クローン胚を作るとともに、体外子宮、体外授乳生体器官、ないし人工装置を開発することで、女性の生物学的貴重性をなくし、男性が女性を守る必要をなくすしかない。

そういう点で、完全なジェンダーフリーは、遺伝的、生物学的性差をなくさないと実現しない。

そもそも、女性のヌードやボディラインを見るだけで、男性が性的に興奮したり、男性の筋肉に女性が興奮したりするのは、心理的性差の根源が、遺伝的に決まっている証拠のように見える。こうした心理的性差が、後天的な学習によって覆せるものかどうか、一度きちんと実験して白黒をはっきりさせるべきである。覆せないと、性を超越した人間を作ろうとするジェンダーフリー社会の実現は難しい。

あるいは、女性を見ても興奮しない男性を作るなどして、人間の心から性的な要素を完全に追い出す必要がある。そうしないと、性差に拘束されないジェンダーフリー社会の実現は難しいだろう。


要するに、女性にとっての社会進出を試みる時にぶち当たる壁は、男性によって囲われることによってできる壁であり、それは、根源的には、卵子(女性)・精子(男性)の役割の違い(生物学的貴重性の違い)に基づく壁なのである。

この壁を根本的に壊すには、あるいはなくすには、従来の卵子・精子システムに代わる生殖システムを作成する必要がある。これは、結構大変なことである。そこで、壁や囲いそのものをなくすよりも、囲いを広げることを目指す方がより簡単で効果が大きいのではないかと考えられる。

すなわち、男性の女性を囲う想定枠のサイズを広げることで、女性の活躍可能な領域を広げることができ、女性の男性からの解放を実現できる。

要するに、男性に対して、メンタルなトレーニングや治療を施し、男性が、女性による、従来の男性自身の想定を超えた活躍を許容できるように、人格改造を行うのである。例えば、女性が自分を超える給与をもらうようになった事態を想定して、それを徐々に受け入れていく訓練を行うのである。そうすることで、女性が、ある程度、男性を超えた活動をしても男性から拒絶される度合いが減ると考えられる。

あるいは、女性が、男性に守られた、快適空間を提供された、専業主婦並みのヌクヌクとしたコアを、男性の枠内に残しつつ、男性の作った枠の一部を破って外部進出することが考えられる。

しかし、それでも、完全に囲いをなくするのは、そのままでは無理である。男性による女性の囲いをなくすには、男が女を守るという状況を生み出す、卵子・精子図式を崩す必要がある。それには、卵子・精子によらない生殖を行うように人体を改造するといった、生殖革命が必要となる。



「甘え」とは、相手への一体感を伴った寄り掛かりであり、相手に許される、受容されることを見越して、一方的に負担をかけることである。例えば、女性が、より環境条件の良いところに、男性を外に追い出してでも、い続けようとすることがこれに当てはまる。


男性が女性を囲い、外出させないもう一つの理由は、自分が手に入れた好きな女性を、他の男性に取られたくないとして、女性が浮気しないようにするというのがある。要するに、女性が外に出ないようにして、他の男性に接触する機会をなるべく減らしたいというものである。

これは、男性が、他の男性経験がない処女を好むのと理由が同じである。要するに、「自分専用の女性になってくれる」からである。

男性は、自分の好きな女性に、他の男性の子供を生んでほしくないのである。他の男性の子供を育てるはめになる危険を減らしたいのである。

この場合、男性による女性への囲いは、全ての人が誰の子供かを一発で判定できるようになることで軽減されると考えられる。

遺伝子診断により、子供が胎児の段階で、誰の子供かすぐ分かるようにして、相手男性に子供の養育費を負担させることを義務づけることが必要である。

今までは、女性が産む子供が誰の子供か、妊娠した時に分からなかったが、これが、男性が女性を囲う一つの原因となっている。男性としては、自分の血を引かない子供を育てる脅威を避けたいと考え、それが、女性を他の男性とくっつかないように囲う、独占するきっかけとなっている。

今後、こうした男性による囲いをなくそうと思うならば、イスラエルのキブツではないが、全ての親が、子供を産んだら、子供を専用の養育施設にすぐに預けることで、子供の存在をある程度親から切り離すことにより、子供は夫婦で育てるものという固定観念をなくす必要がある。

要するに、子供を作る上での、男女の組み合わせが、その時々でランダムに入れ替わることを許容し、夫婦の長期間の排他的結合をなくすことが、男性による女性の囲いをなくすことにつながる。

すなわち、A子さんにとって、一番目の子供はP夫さんとの間に生まれ、二番目の子供はQ夫さんとの間に生まれ、三番目の子供は、S夫さんとの間に生まれる、といったようにするのである。
あるいは、L夫さんにとって、一番目の子供はV子さんとの間に生まれ、二番目の子供はW子さんとの間に生まれ、三番目の子供は、X子さんとの間に生まれる、といったようにするのである。

その際は、全ての子供は、各々が世界に母親と父親の組み合わせが1人しかいない独自の存在として扱われ、保育士や看護師たち育児の専門家によって、その子の潜在的な才能を遺伝子解析した上で、その子に合った最適の教育を施すことにすればよい。親と子供は自由に面会できるが、同居はせず、基本的に別々の場所で過ごす。


従来は、男性が強く、女性が弱いと見なされてきた。なので、弱い女性の自立は難しいとされてきたのである。

つまり、護衛する役の者は、守られる役の者よりも、力が強くないといけない、という考えである。

これがもし本当に正しいなら、世界の政権は、軍事政権ばかりのはずである。また、首相のようなトップは、みな筋骨隆々のマッチョばかりのはずである。

しかし、実際にはそうなっていない。日本を含む世界の主要な国家は、現在、文民統治であるし、あるいは、例えば、日本の小泉首相がマッチョであるという話は聞かない。

なので、筋力の弱さとかは、女性の自立を阻む条件には必ずしもなっていないと言える。それを持ち出すのは、女性に自立して欲しくない男性か、従来通り、男性の与える枠内でヌクヌクと快適な生活をしたい女性である。


日本においては、女性は、自分から、自立や社会進出が進まない現状を変革するために、積極的に動こうとしないのが現状である。要するに、退嬰的というか、自らは手を下さずに、動かずに、他の人(男性)に動いてもらおうとするのである。要するに、不満をためて、文句を言って、結婚時期の延期や子供を産まないといった形でネガティブな抵抗をするだけで、改善策とかは自分からはあまり出さず、自分は手を汚さないのである。

例えば、育児退職後の正社員再雇用が進まない、保育園の子供収容人数が増えないと言って、女性同士が連帯して、家事ストライキをしたり、夫への小遣いを0円にしたりといった実力行使をした事例を聞いたことがない。自分からは動かず、男性による対応待ちをしている姿勢がありありと感じられる。

これの男性待ちの受動的な姿勢を何とか解消しない限り、日本において、女性の社会進出も、自立も当分果たされないのではないだろうか。



参考文献

E.Margolies,L.VGenevie, The Samson And Delilah Complex,Dodd,Mead & Company, Inc.,1986(近藤裕訳 サムソン=デリラ・コンプレックス -夫婦関係の心理学-,社会思想社,1987)


(c)2004.8 大塚いわお

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